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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №9 [文芸美術の森]

岸田劉生と野十郎 2

          早稲田大学名誉教授  川崎    浹

 こうした風潮のなかで岸田劉生は、野十郎個展の翌大正十二年(〓些≡)『白樺』の二月号に「製作余談」を掲載し、美術の近代的傾向に対してつよい疑問符を打っている。
「先日来たロシアの未来派の画かき達でも、やっている事が何だか仰山で不自然で、世間的臭味がつきまとっている。一体未来派その他新しい画をかくという人間を見ると、殆ど皆、少なくも落ちついた人間はいない。新しければ新しいもの程、病根を大きく深くしている感がある。どんなにひいき目に見る時でも、何処かに大きな不自然がある」。
 劉生は、近代芸術が深く沈んだ心や既成の美を表現しなくてもいいとか、現代は過去のもので活力を得る事はできないとか主張することに不信をいだき、これからは「静かな深い心境に遊ぶ事は不必要になったのか」と嘆いている。かれは他方で「正しい道は既に生まれている」と言い、それが「美術の堕落」を救うことを期待している。「正しい道は別の処にある。もっと平凡に見える処にある」。
 それは七年前の大正四年(「九「五)に劉生が二十代半ばで描いた《道路と土手と塀(切通之写生)》を根拠にしているのだろう。また右の発言には、野十郎を知っているはずのない劉生が、同じ傾向をもつ同輩後輩をあたかも励ますような口調がある。
 ちなみにダヴイド・ブルリユークについて二一百くわえると、近年ロシアで刊行された『日本におけるブルリユーク』というりつばな画集には、日本と日本人を措いた、いまでも新鮮さを失わない興味ある画と、日本でのかれの足跡が詳しく紹介されている。
 ところで野十郎は「もつと平凡に見える処にある」「正しい道」を見つけていたのだろうか。
 制作は「九≡年とあるので大正十年の初個展に出品されたはずだが、灰皿の絵がある。由緒ある盃や茶器のたぐいと異なり、ただの灰皿である。両方の絵とも灰皿に吸いさしの煙草が置かれ、煙が出ている。一点は還(夜の)》と遷され、煙に焦点をあてることのメッセージが発信されている。後年画家が言った「空気」という言葉を思いうかべる
 と、煙や空気という最も影のうすい「存在」を通しての、本来は何物でもないところのものを表現する、そういう対象との距離の取り方を示す最初の兆候かもしれない。また煙はまもなく消えてなくなるという現象なので、どこかで《蝋燭》の焔につながっているのではなかろうか。
 高島野十郎は三会堂での初個展から昭和五年の渡欧までの十年間に何度展覧出品し、なにをしていたのか。現在分かっているところでは、渡欧半年前の大連での個展開催まで含めると五回出品している。
 野十郎の二度目の個展が開かれた大正十三年当時の画壇では、三大展(帝展、二科展、春陽展)での入選、入賞が大きな社会現象にもなっていた。劉生も《童女舞姿》を出品し、草土社色が強かったが、受賞したのは三岸好太郎や河野通勢だった。
 大正十三年(「九二四)、急進的な青年画家たちの三科造形美術協会が結成される。昭和四年(一九二九)に「日本プロレタリア美術家同盟」が創設されたことも時代の趨勢を感じさせるが、数年で解散せざるをえなかった。昭和六年(一九三二)には満州事変が起こり、いわゆる十五年戦争の硝煙が立ちこめはじめる。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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