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渾斎随筆 №38 [文芸美術の森]

 公園の石碑

                 歌人  会津八一

 私は先日白山公園へ行って、ほんたうに久々であの小高い丘に登って、その上にある「新潟遊園記」といふ石碑の前に立った。それを讀めばこれは、明治六年に秋月子爵に書いてもらった文章を、時の縣令楠本正隆さんが石に刻んで建てたもので、縣民がめいめいによく運動をして身體を達者にして、その日その日の業務にいそしむことが出来るやうにこの公園をつくったのだと書いてある。
 また同じ丘の上に、この碑のすぐ近くに「美由岐岡」 -たぶん「ミユキガヲカ」とよむのであらう- といふ文字の石碑が立ってゐる。側面の銘文によれば明治の初めに天皇が此處へ御臨幸になったことを記念するために、杉子爵に願って書いてもらったものを、明治四十五年に建てたのだといふのである。ところがどちらの石碑も多くの市民は記憶に止めてゐないらしく、この丘が「美由岐岡」と名づいてゐることを知る人も少いらしい。
かういふことを考へて見ると、何のためにこれらの石碑が建ててあるのか、縣民の健康といふこと、天皇の臨幸といふこと、これを標識し記念するのは意味のないことではない。しかし全く一般の民衆達からその存在が忘れられるやうになったのは、忘れてゐる市民の責任ばかりでなく、こんな石碑を建てさへすれば、必ず効果があると信じてゐた役人とか、有志とかいふ人達が大きな見込達ひをしてゐたためではあるまいか。この「遊園記」などが漢文でなく - 口語體でなくとも- せめて假名混りで書かれてゐたならば、これほど民衆から疎んじられることも無かつたであらう。決して民衆ばかり責めてゐられるものであるまい。
 日本人は昔から自分自身のもつ文化を強調しないで、すぐ外の大国の文化に一も二もなく頭を下げてしまふ風があった。これは恐らく奈良時代以前から平安時代以後ずつと同じことであった。自分の国の言葉で歌なり文章を書くよりも、中國の詩を作り文を漢字づくめで書く方が、より高尚な仕事である、かういふ考へ方が残念ながら日本には行はれてゐたのである。この風は徳川時代から明治時代に及び、さらに今日に至ってもまだ日本人の頭に残ってゐて、文を綴り或は畫を描き書道に親しむ人々を相當強く交配してゐる。この中國に封する傾倒の情のほかにオランダに感服しその後はアメリカのために目を発されて、欧米の文化に封しても同じやうに傾倒の情を示して来たものである。このことは日本人が己を空しうして大に世界の強大なる各国に傾倒の情を抱いたからこそ、日本の文化生活は割合に早く進んだともいへる。けれども餘りに己を室しうし過ぎて、己れ自らの民族として、國民として前途をどうしたらいゝかといふ判断を往々にして自ら立てることを忘れても平気でゐるやうなことに至らしめたのではなからうか。
 日本人が假名で歌を書き、俳句を作れば、それは日本人の文学として相當なことであり、また價値あるものがその間から生れて来る。しかるに假名の中に漢字を混へるといふ程度を超えて、漢字だけのものを書くといふことが、最も深い學問と、従って價値とを含むものと考へることが随分久しく日本人の間に行はれてゐた。だから如何に下手な漢詩でも、漢詩を作る人は和歌を作る人よりも何かえらくでもあるかの如く思はれる状態であった。それ故に何事も古に戻り、佛数の如きは外國の宗教であるからこれを壓迫して神道の信仰にもどさなければならぬと、随分乱暴な取計ひをさへ敢てした明治の初年に於てすら、漢文を書くことが日本人の最も正しい高尚なやり方であると一般に思はれてゐた。
 ところが今日、その結果新潟市民のために書かれたところの石碑が、新潟市民の誰からも読まれてゐないといふことになってゐる。これは明らかに文化の指導的地位にあったところの縣令その他の役人達の、大きな不心得と不見識から生じたものに達ひない。これと同じことが、将来どういふ形でわれわれの為すことから起って来ないとも保證されない。今日中國に代ふるに欧米をもってして、その表面的な形式を借用しただけで、やはり同じやうなうらみを後世にのこすことがないとは、誰も保證することが出来ないであらう。
 白山公園には、竹内式部のために實に大きな石碑が建てられてゐる。私はその石碑の下に立って碑文を讀みにかかったけれども、餘りに丈高く、首筋が痛くなって讀み終ることが出来ずに帰った。この石碑は有名な日下部鳴鶴氏が揮毫され、文章は星野博士が書かれたものである。およそあの石碑の下に立って、あの文章をあそこで讀み通すことの出来る人は恐らくないであらう。その證據には大正十一年になって、あの長い漢文の意味を縮めて、誰にでもわかりいゝやうに假名まじり文に手短かに書いて、銅板に彫って建ててくれた人がある。これは親切なやり方といはなければならない。この銅板の釋文があって漸くこの石碑の意味がわかるのであるが、何故最初から假名まじりの簡単にして読みやすい書き方を選ばなかったか。昔の形式をいかめしく、むづかしく書いて刻んで飾ってさへおけばどうにかなるであらうなどといふことは、生きた社会指導者のなすべきことではない。いかに立沢なものであつても、生きた関心を、生きてゐる人々に及ぼすところの力のない、いはば無用の長物となってゐるやうなものを作るといふことは愚かなことである。
 若し「新潟遊園記」なり、竹内式部の碑なりを讀まないのが現代人の恥づべき無知であるとするならば、何故これらの碑を讀んで欒しむやうに今の民衆を教育しなかつたか。讀めない民衆も責むべきであらうけれども、讀めぬものを建てて讀むやうに指導しなかつたことは、やはり指導着の責任といはなければならぬ。
 人は何人も世の変化といふものを豫知することは出来ない。しかしある程度まで自分の識見をもって、世の中の成行きを洞察することが出来ないことはあるまい。その識見と洞察とに基いて民衆の赴くところを指導して行くことが必要ではあるまいか。
 今日、文化文化といふ呼び声の非常に高い時代である。けれども、文化といふことは決して特別のことではない。よくものを味つて、両足を地べたに踏みしめて、じっくりと腹の底に味つてからでなければ口にすべきことではない。今までわれわれが中國の文化に封して盲目的に模倣して来たやうなことを、欧米の文化に封してくりかへすやうな愚かさは恨しまなければなるまいと思ふ。
                    『新潟日報』昭和二十二年二月二日

『会津八一全集』 中央公論社

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