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対話随想余滴 №18

余滴18 関千枝子から中山士朗様へ

            エッセイスト  関 千枝子

 退院後一か月が過ぎましたが、相変わらず、のろのろと仕事をしております。一言でいうとパワー不足で、休み休み仕事をするので何事も遅くて仕方がないのですが。でも退院一か月検診で、骨折部の人工関節はとてもきれいに入っていましたし、手術は成功なのでしょう。しかしこれで、体が元のパワーにもどるかというと、そんなことではないようで、大腿骨骨折はやはり大変ですね、しかし、安静にしていればいいというものでもなく、歩いたり「わが仕事」をちゃんとやっている方が、体の調子もいいようです。
そんな中で一日に二、三冊ずつ「対話随想」を「登場者」に送っています。何冊かは入院中、西田書店に頼み送ってもらったのですが、まだ送れてない方がいらして。一度に送ればいいのですが、ポストに運ぶのが大変で、一度に三冊くらいで、まあのろまな仕事です。
 色々反響が多いのですが、その中から狩野美智子さんの手紙を紹介します。ご承知のように、「対話随想」の中で、彼女が「玉音放送」の後のラジオを聴いていた話が書いてありますが。その部分です。
 ≪・・・・・私は、そのままラジオを寝そべって聞いていたのです。祖母、母、妹は聞き終わってすぐ部屋に戻ったのですが、私は被爆後六日目です。しんどかったのでしょうね。ラジオのある茶の間にいて、そのまま寝そべっていました。「玉音放送」の後「解説」とおぼしき放送があったのをじっと聞いていました。(あとで、敗戦は、つまりポツダム宣言受諾のことで、その内容の解説だったのだとわかったのでしたが)。五十一ページに中山さんは私の聞いたのはずっと後GHQの管轄下におかれたころに聞いたのではないかと書いていらっしゃいますが、私は「玉音放送」の直後に聞きました。
 私のその時の気持ちは、そのころ、繰り返し読み続けていた「啄木歌集」のなかにあった「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」という短歌でした。朝鮮が日本の植民地でなくなるのだ。日本のしたことは間違ったことだった。それが思いです。その時、台湾のことはあまり考えなかったのですけど>
 狩野さんは、中山さんより一つ年上の学年です。私たちに比べて少しは「大人」の考えを当時すでに持っていたのかもしれません。
 狩野さんは、金子兜太さんのことが書かれている部分に興味を持たれたようです。東京新聞で、二〇一五年から、金子さん、いとうせいこうさんを選者に平和の俳句を一般から募集する企画をした、狩野さんは俳句は素人にはできるものではないと信じていたけれど、季語のいらない平和の俳句をやってみようかと投稿したそうです。一年目、落選句の中から係の記者が選んだ句に一回選ばれたそうです。「夾竹桃 伝え足らざる戦世(いくさよ)を」
 選者に取り上げていただいたのは三年間で三句
  「櫻花 散ることだけが褒められた」
  「竹槍で B29を撃つ狂気」
  「おばあちゃん 原爆のときどこにいたの」
だそうです。
 狩野さんが「平和俳句」に投稿していたとは知らず、驚きましたが、金子兜太さんという方、本当に死ぬまで活動しておられた、すごい方ですね。

 ここまで書いてきたところで、緊急ニュース。気象庁発表、九州に大水、自分の命は自分で守れ、早めに避難を、ですって。南九州の方がひどいようですが、大変ですね、何でこのごろ九州ばかりがやられるの!と思ってしまいます。

 さて、その後の報告ですが、本当に楽しくなったこと、二つばかりありました。
 六月十六日、「山の手大空襲を語り継ぐ集い」という会に行ってまいりました。一九四五年五月二十五日の山手大空襲、私が広島に来る前まで東京で住んでいた家もこの空襲で焼けましたし、下町大空襲のことは知っていても山手大空襲のことは知らない方が多く、残念に思っていました。この空襲の一番の惨事は表参道に逃げた人々三千人が、交差点のあたりで折り重なって死んだことで、表参道の石灯篭には今もその時の人びとの焼けあとがはっきり残っております。この近くの善光寺という尼寺で、毎年供養法要が営まれています(まったくの寺のご厚意で)。私も毎年参加していたのですが、去年は何か都合がかち合って行けず、今年はなんと病院から退院の日で、行けず、残念に思っていたら、こんな集いがあるというので、参加しました。と言っても、何事にも仕事が遅くて大分遅刻してしまい、一部がすんだ頃着いたのですが。一部は、山手大空襲の被害者の手記(今まで二冊出ていますが、今年、また手記集を作ったみたいです)、を小中学生が読み、小学生がそこで退席して中学生以上と大人たちの話し合いになるところから参加したのです。そして集まっている人々がいつもの法要の時と違って二回り位若いことに気づきました。空襲体験者に若い世代の人が協力してこの集いを計画した、山手大空襲の体験を次世代に伝え、歴史から学び戦争を二度と起こさないようにすることというのが趣旨だそうで、実にいいことだと思いました。実際に朗読した女子中学生の方から「焼夷弾が、落ちてくるとき、ザーという音がしたと書いてあるが、なぜそんな音がしたのか」「とか「焼夷弾ってどんな大きさのものだったのですか?」など質問が出ます。私は焼夷弾の被害を直接受けたことがないのでよく知らなかったのですが、体験者の方はよく覚えていて、焼夷弾はいくつか束ねて落とされることが多く、ザーというすさまじい音がしたこと、長さは50センチくらいだったことを詳しく話される方もいました。でも、ただ読むだけでなくキチンと質問する中学生に感心し、この少女の制服から東京女学館の生徒と分かったので、東京女学館初等科(小学校)の卒業生である私は、思わず発言してしまいました。渋谷区羽沢(当時の地名)の女学館は全部鉄筋の建物で、あの学校が焼けるとは誰も思っていなかったのに、本館4階の講堂に弾が命中、講堂だけが焼けたこと、私の同クラスの方々の家も恵比寿、麻布、六本木。白金などの方が多く、そのあたりも全部焼け落ちたこと、山手大空襲の地域は広く人口の関係で死者の数は少ないのですが、あの空襲で本当に首都東京の息の根が止まったことなど。でも女学館の生徒が朗読に参加していること、熱心な先生がおられることなど分かりとてもよかったです。いい会でした。主催者の方のお話では、八月三日にまたこんな会をするとのこと、いいですね、私はその頃は広島に行っていて参加できませんが、東京の空襲は下町大空襲だけでないことを次世代にぜひ伝えてください、と言っておきました。
 三十日、ある大学の学生さん二人に会いました。ヒロシマのことに興味を持っている人と分かったのでお会いしたのですが、熱心で優秀な二人(男女)に感心しました。私の本を上げようかと持って行ったのですが、付箋をつけ熱心に読み込んでいて驚きました。この人たち別に秘密でなし、名前を書いてもいいのですが、何だか大学などへの締め付けも始まっているし、二人とも大学三年生。教師志望だというので、もし何か不利益があってはいけないと思い、大学名も名前も書きません。
大学は超一流校でなくまあ、普通のランク付けでは二流でしょうか、しかし、近頃超一流校出身のおバカさんをたくさん見ています、勉強の偏差値と人間の優秀さは全く違うと思いました。
 男性は、子どもの時「はだしのゲン」を見て原爆のことを考えるようになった、と言い女性は高校のとき、沖縄修学旅行に行って、と言います。それから素晴らしいことは、大学のゼミ(二人とも同じゼミ)が素晴らしく、先生はマーシャル諸島の原爆実験の被害のことを研究している方で、そんなゼミなのでゼミ仲間は、原爆のことや戦争の問題にとても熱心なんですって。すばらしいですね。そしてこの二人が教師になって次の世代に伝えたい、歴史の継承をしたいと真剣に考えているらしく、感動してしまいました。
 四時間近く話し込んでしまいました。でも。彼が「でも学生全体で言うと無関心な人が多く、どんなに僕らがひっぱり込もうとしても,関心がなければどうしようもない、どうしたらいいでしょうね」と聞かれたのにはまいりました。私たちが今の「若い人」たちに抱いているどうしたら、と同じ思いですから。そしてそれは、私たち世代の責任かもしれませんから。
 この学生さん、五日には広島入り、私のフィールドワークに興味をもち、参加したいようです。今年の夏は、また新しい「連れ」が出きたようです。しっかり体を鍛えておかないと、思っています。


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