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余は如何にして基督信徒となりし乎 №69 [心の小径]

第十章 基督教国の偽りなき印象 — 帰郷 10

                   内村鑑三

 つぎに、諸君が我々のところに来る時には、健全な常識をもって来れ。一国民は一日のうちに回心させられ得ると諸君に語る外国伝道(ミッション)軽業師(かるわざし)の言葉を信ずるなかれ。この地上で発見さるべきいかなる精神的「黄金国」(El Dorado)もない。いかなるところであれ霊魂は数ダースずつ、数百ずつ回心させられ得るものではない。ここもかしこも同じ当り前の世界である。人々は疑い、偽り、つまずくのである、ここでも他のどこででも。余は宣教師のうちには、我々が彼らの同国人であるかのように、我々に説教する者のあるのを知っている。彼らは、アメリカ人とイギリス人にあのようにうまく行っているムーディ・サンキー方式は、日本人とシナ人にもひとしく成功すべきであると考えているように見える。しかし日本人とシナ人はアメリカ人ではない、諸君のよくご承知の通りである。彼らはその幼時を『主はわが僕者(かいぬし)』、『今われ眠る』その他の天使のメロディーではぐくまれたのではない。彼らは銅鑼(どら)にエスティ・パイプオルガンだけの喜びを感ずる。彼らは『異教徒』である、そして諸君はそのように彼らを教えなければならない。しかるに或る人々は彼らにイエス・キリストを説教し、新約聖書を一部ずつ彼らに与え、洗礼を受けるように説得し、教会員名簿にその名を登録し、かくて彼らを母教会に報告させ、そして彼らは安全であり、ともかくも天国には行くであろうと考える。おそらく彼らはそうかもしれない、おそらくそうでないかもしれない。遺伝的影響、心理的特質、社会的環境は、(彼らのうちにある罪を犯そうとする同じ古いアダム的傾向については何も言わないとしても、)彼らに宣べ伝えられる新しい聞きなれない教義には、それほどたやすく適合し得るものではない。我々は不敬虔(ふけいけん)な科学は軽蔑しても、しかも科学なき福音宣伝には多くの価値を置かない。余は信仰は全く常識と両立し得るものであると倍ずる、そして熱心な成功した宣教師はすべてこの感覚を豊富にもっていたのである。
 藷君自身の霊魂のなかで悪魔と戦いぬいてのちに、我々のところにもまた来れ。ご承知のようにジョン・バンヤンは悪魔にはほんの僅かな経験しかない牧師先生のことを語っている。彼がバンヤンの霊魂を癒すことができなかったように、彼のような牧師は我々異教徒を癒すことはできない。回心のことは『遠方からの報告』として開いただけの『生れながらの基督信徒』は、暗黒から光明への我々の死闘に我々を大いに助けることはできない。余はアメリカに三人のクエーカーの教授を知っているが、彼は余がキリスト目指す余の闘いにおいて克服しなければならなかった疑問と困難について彼に話した時、どうしてそういうことがあり待たか自分にはよくわからない、基督教は一つの単音節L・O・V・Eのなかに含まれているほど簡単なものであると思うから、といった。ただ一音節、しかし宇宙それ自体がそれを入れることはできないのである! 羨(うらや)むべき人なるかな、彼は。彼の祖先が彼のためにその闘いを闘ってしまったのである。彼は闘いを意識しない。この世に来たのである、レデイ・メード(出来合い)の基督信徒である。百万長者の息子が自力自立の艱難辛苦を理解することができないように、この教授や基督教国おける彼のような多くの人々は、我々異教徒があの一一音節のなかに平安に落ちつくようになる前に何を我々の霊魂において闘わなければならないかを理解することができない。彼のような人は自国に教授として留まり、宣教師として我々のところに来ないようにすすめる、彼らの単純さと一本気とが我々を当惑させるように、我々の複雑さと剛回りくどさが彼らを当惑させるかもしれないからである。本当に我々のうちで基督教に対して何か真摯な経験をもったことのあるものは、それが全く安易な、ホーム・スウィート・ホームの、すべての人に平安あれの、事柄ではないことを知ったのである。我々はそれがいくぶんか詩人ブライアントの「自由」のようなものであることを知ったのである、
  『有髯(ゆうぜん)の男子、
  寸分すきなく武装せるが、なんじなり、鎖籠手(くさりごて)せる一手は
  広き盾を、一手は剣を把る、汝の額(ひたい)は
  美しさに輝くとはいえ、傷あとあるは
  古き戦いの印なり、汝の巨大なる四肢は
  闘いのゆえにたくまし』
である。我々は『天路歴程』の責価は解することができる、しかしあの幸福な幸福な蜜月式宗教については、我々はそれが何であるかを知らない、ただ知っているのはそれが十字架につけられたまいし者の基督教ではないことである。異教はまず諸君自身の霊魂において征服せられて、然る後に諸君はそれを我々においてりつばに征服することができる。


『余は如何にして基督信徒ありし乎』 岩波文庫


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