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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №8 [文芸美術の森]

岸田劉生と野十郎  1

             早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 野十郎のように自負心と独立心のつよい青年が劉生のような年下か同輩の画家から影響を受ける自分を許すことができただろうか。劉生の《道路と土手と塀(切通之写生)》や《静物》を前にして、そのすぐれた要素を模倣して影響をうけるというより、それとは別の自分の個性を表現しようという競争心、さらには自分をさえ超えていこうとする気持ちのほうがつよかったのではなかろうか。劉生を意識すればするほどそうだったと思う。 
 さて三会堂での初個展やその前後の時期に描かれた作品は、全体的にほぼ写実的技法が根づいているが、これから暫くの時期の特徴は西本氏も指摘するように、生きる力の横溢をワープ(ねじり、よじり、反り)の形で表現していることで、《椿》が代表的である。魅力的な絵であるが、ここには溌刺と咲きにおう赤い花というより、背景の暗色が染みこみつつある爛熟と死のにおいがしないだろうか。《けし》も人を惹きつける絵で、ワープする細い茎がけしの花をささえて黒みをおびた紅い花とともに地球の重力から飛びだしかけている。《早春》も独特の反りをもつ大樹の風景だが、これは雄渾な印象をあたえる。この枝ぶりはずっとのちに描かれたと推定される《御苑の大樹》や《御苑の春》にも及んでいる。これらの大樹を見ていると、私はなんとなく、興がのると「在るに非ず、また在らずに非ざるなり」と言っては両手を交互に下から上へと楕円形にふりまわしていた高島さんを想いだす。
 多田茂治氏指摘の、野十郎が青木繁の影響をうけたとする育夜の雲》もある。これは《落暉》と同系の非写実絵画だが、のちの増尾時代の太陽、とりわけ夕陽の表現につながるのではなかろうか。二つの絵を左右に対比させると、野十郎が当初からぱくぜんと、「月夜」とはいえ月のない闇とか、光そのものにこだわりを持っていたことを示唆している。
 野十郎が《絡子(らくす)をかけたる自画像》を措いた大正九年(一九二〇)の十月には、ロシアから未来派の有力な詩人で画家のブルリユークやパリモフらが来日し、円本の未来派に参加し、大きな刺激をあたえたが、日本官憲の監視下におかれてのち渡米した。日本の前衛派はロシアのみならず、むしろ未来派の本家ともいわれるイタリアのマリネッティともかなり親しく、つよいコンタクトをとっていた。
 同年九月、日本美術院展でルノアール、ロダン、ピサロ、マネ、マティス、ドガ、セザンヌらの油絵が展示された。これ以降、ほぼ毎年泰西洋画の実物が紹介されるようになり、画期的な出来事となった。(つづく)

川崎けし.jpg
けし
川崎早春.jpg
早春
川崎御苑の大樹.jpg
御苑の大樹

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂




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