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雑記帳2019-7-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-8-15
群馬は古墳王国。榛名山の噴火に埋もれていた遺跡は日本のポンペイとも呼ばれています。

先般、百舌鳥古墳群がユネスコ世界遺産に登録されて、古墳への関心がたかまっています。旅行会社もこぞって古墳見学ツアーを組んでいます。東京から日帰りで行ける埼玉や山梨以外にも、群馬県にもあるのを知って参加しました。

その名のとおり、群馬は馬の産地でした。平安時代の延喜式によれば、全国の32牧(まき)のうち、上野国には9牧ありました。そのほかには、信濃16牧、武蔵4牧、甲斐3牧とあります。
天竜川沿いの伊奈谷は、当時日本の最先端をいく馬の産地でした。信州の馬はみなここに集積、調教されて都へ献上されました。672年の壬申の乱で、伊奈と美濃の騎馬軍団に支援された大海人皇子が勝利したことからも、古墳時代に馬は重要な軍事力、抑止力をもっていたといえます。
上野国は、東山道の上坂峠を越えて信州とつながり、伊奈谷とは3世紀末から馬の文化や飼育技術の交流があったようです。

3世紀中ごろに作られた箸墓(はしはか)古墳に始まる古墳時代は、約350年つづきました。この時代、群馬は「上野国(かみつけのくに)」と呼ばれています。
古代には東山道がとおり、(江戸時代には中山道、例弊使街道も通った)、街道を利用した渡来人の往来も多く、半島の技術や文化ももたらされたことでしょう。こうして、馬の産地であるだけでなく、交通の要地でもあったことから、関東の中心地として栄えた群馬には多くの前方後円墳が作られました。発掘されたものだけで14,000基、まだ2,000基以上の古墳がのこっているといわれます。今回訪ねたのはそのうちの一つ、保渡田(ほどた)古墳群です。

関越道前橋インターを降りて15分ほどで、高崎市・上毛野はにわの里公園にある「かみつけの里博物館」に到着しました。

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かみつけの里博物館
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馬の里だけあって博物館の入口にも馬(館内は写真がとれないのでここまで)

博物館の周辺には、二子山、八幡塚、薬師塚の3つの前方後円墳が点在、これらの国指定の史跡は保渡田古墳群と呼ばれています。
新幹線開通工事のおりに発見された3つの古墳は、榛名山の噴火をはさんで30年の間に、順番に作られた模様です。博物館の学芸員、横山さんに古墳を案内してもらいました。

まず八幡塚古墳です。周囲190mの前方後円墳は、道路をはさんで博物館のすぐ前にありました。
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八幡塚古墳
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古墳の周囲には住民手作りの円筒埴輪

20年ほど前、博物館ができたのと同時に、5世紀の造営当時の姿に復元されたそうです。周囲に円筒埴輪がめぐらされ、盾を持った埴輪が古墳の外周をまもっています。一角には54体の動物や人物の埴輪群。この埴輪がなかなか面白いのです。
猪や馬の形をした動物埴輪。髪型やかぶりものから王様らしき人物が想像できる、何やら儀式らしい場面や、人物と動物を組み合わせて狩猟の場面が再現されていて、いくつものドラマをみているようです。中には鵜もいます。首を高くあげ、口に魚を加えた鵜の埴輪があります。頸部には鈴のついたひももついていて、芸が細かい。この時代から鵜飼がすでにあったのですね。

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埴輪群(中央の手を挙げているとり埴輪は相撲とりらしい)
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王様の前で何やら儀式をやっている場面
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鵜や動物の埴輪も

これらの埴輪は6世紀初頭の榛名山の噴火によって半分埋まった状態で発見され、当時の風俗や社会の情報を多くもっているということで注目されているのです。埴輪群は展示用にプラスチック製ですが、古墳の周囲の素焼きの埴輪は市民の手作り、地域のみんなで古墳を守る意味も持っているのだそうです。

8mほど階段を下りて竪穴式石槨の内部を見ることができました。
副葬品は盗掘されてわずかにしか残っていませんが、舟形の石棺は地方の豪族としてなかなかの力を持っていた人物だと推察できます。

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復元された石棺

三つの古墳の中で、榛名山が噴火する前、最初に作られたのが博物館の裏手にある二子山古墳です。
榛名山の東麓に広がる大地に井ノ川の水を利用して水田ができ、豊かな田園がひろがる。森の木が切り倒されて、次々に、周囲の景観が変わるほど開発の進んだのがこの時代でした。学芸員の横山さんは二子山古墳に埋葬されていた豪族を「山麓の開発王」と呼んでいました。半島とのつながりが推測される副葬品もみつかっています。こちらは発見されたときの状態を保つように復元されました。

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二子山古墳

噴火の後に作られた薬師塚古墳は実は古墳の形は残っていません。古墳の上にお寺がたてられたからです。その寺、西光寺には薬師塚古墳から見つかった副葬品が大切に保管されており、石棺はレプリカではなく本物でした。噴火のあとにつくられたからか、他の二つに比べると古墳の規模は少し小さくなっているそうです。巨大古墳の時代が終わったことを象徴するようです。

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発掘された古墳の副葬品を保管している西光寺
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レプリカではない本物の石棺

「かみつけの里博物館」に入ると、足元に、保渡田古墳群だけでなく、群馬県下の多くの古墳が一目でわかる地図も工夫されていて、1500年前の古代人の生活に思いをはせる展示は、子供たちの学習にも力をいれているようでした。

次にむかったのはユネスコ世界の記憶に登録された「上野三碑(こうずけさんぴ)」です。
古墳時代をすぎた8世紀、飛鳥・奈良時代の、高崎市南部地域3キロの範囲内に点在する史跡です。
日本国内に現存する平安時代以前の古碑はわずかに18例に過ぎず、そのうちの3つがこの地にあるのです。日本最古といわれる碑(いしぶみ)が街から離れた山の中に3つも残っているのはなぜなのか、添乗員さんはしきりに不思議がっていました。
碑に書かれた文字は今の日本語の配列になっており、書かれた内容から、当時の社会のありようが浮かびあがってきます。バスは大型車では通れない狭い山道を行きました。

山上碑(やまのうえひ)は完全な形で残る日本最古の石碑です。681年、天武天皇の御代に立てられました。
200段近い石の階段をのぼってたどり着いた山頂には、碑と、碑を刻んだ僧とゆかりの一族の古墳が並んでいました。
碑は放光寺の僧、長利が、母親、黒売(くろめ)の供養のために、黒売と自分の系譜を刻んだものです。隣の古墳は、碑よりも数十年古いもので、黒売の夫を埋葬するためにつくられ、黒売死後、彼女もそこに葬られました。石碑と古墳が並んでたっていることから、古墳文化から仏教文化へ移行する時代だったことがわかります。
碑文は日本語の語順に漢字が並べられていて、現在につながる日本独自の漢字の使用法の原型が示されています。石は自然石。劣化を防ぐために覆屋(おおいや)におさめられていました。
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200段の石段を上った頂上にある石碑と並ぶ古墳(かなりこぶりである)
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覆屋の中の山上碑
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碑に書かれた文字

金井沢碑は726年、奈良時代初期に、祖先の供養、一族の繁栄を願って造立されたものです。一族の佐野氏は先の山上碑に示された豪族の末裔とみなされています。
驚くのは碑文に刻まれた9人の名前のうち4人が女性だということです。
系譜は妻の実家の系譜であり、しかも女性の実名が刻まれています。この時代の、女性を中心とした家族関係が浮かびあがります。
また、碑文に「群馬」の文字があり、群馬という名前が最初に出てくることでも注目される資料です。
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金井沢碑
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金井沢碑に書かれた文字

多胡碑記念館は多胡碑から生まれた記念館です。吉井いしぶみの里公園にあり、山上碑、金井沢碑、多胡碑の3つを並べて学べるようになっています。

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多胡碑記念庵


多胡碑は、和銅4年(711)3月、中央政府からの命により、この地に「多胡郡」が設置されたことを記念した石碑です。碑文が続日本記の和銅4年の条と一致するなど、古代史の貴重な資料となっています。記念館には多胡郡の郡衙(ぐんが)の跡も展示されていました。
他の2つの碑とは違う内容だけに、形や文字の大きさも異なり、自然石ではなく加工石でつくられていました。記念館のある公園内の覆屋も立派なものでした。

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記念館に展示されている多胡碑
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多胡碑の納められていた覆屋
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三碑にはそれぞれ子供にもわかりやすい解説がついている


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