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いつか空が晴れる №63 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
        -peace  piece~ビル・エヴァンス~
                  澁澤京子

 昔、ダイビングのためにセブ島のコテージに泊まっていたときのこと。
朝、ボートに乗るためにコテージの裏を歩いていたら、一人のフィリピン人のお婆さんがしゃがむような姿勢で座ったままじっと、静かな海を見ていた。夕方、コテージに戻ってきた時も、そのお婆さんは全く同じ場所に座って、夕陽に照らされながらじっと海を見ていた。彼女は一日中同じ場所で穏やかな海を見ていたのだ。

10代の時から知っているF君から久しぶりに連絡があって、会うことになった。
レストランで待ち合わせてしばらくすると、F君がやってきた。見た目はいかにもエリートだけど、陽気で元気がいい所とか変わってない。しかし、何と言っても会わなくなってから30年以上もたっている、私も緊張したし、最初は時折ビジネスマン風の口調の出るF君と昔みたいに会話できたのはしばらくたってから。

高校からそのまま短大にエスカレート式にあがって、学校がつまらなくてふらふらしていたことがあった。今からでも遅くないから受験勉強したら?とF君に言われたのは、秋だった。
御茶ノ水の喫茶店で待ち合わせて、彼はたくさん参考書を持ってきてくれた。
「受験勉強なんかはクイズ番組に出演するつもりで気楽にやればいいんだ。」それから大学で自分の好きな勉強をするということがどんなにか楽しい娯楽であるかということを教えてくれた。世の中にはこんなに楽しい娯楽があるのに、人は勉強することをまるで義務のように思ってなんてつまらないものにしているのだろう?と。
話を聞いているうちに私は自分が劣等生であることも忘れ、すっかりその気になってしまって3か月か4か月、猛勉強して何とか合格したから、F君はとても優秀な家庭教師だったのだと思う。
彼は当時大学で数学を専攻していて、数式ばかり並んだ本を趣味として読んでいたのを覚えている。
そして、なんといってもピアノが得意だった、クラシックもジャズも。

F君からは勉強以外の大切な事もいろいろと教わった。

ピアノの音階には制約があって、無理矢理規則正しく並ばせられていること、だからこそいくらでも自由な表現が可能であること。不自由の自由。
シンプルであるのが難しいこと、しかし一番美しいこと。
共感、信頼、論理(理性)これが重要であること・・
もしかしたらF君は、そういった人生でとても大切なことをジャズから学んでいたのかもしれない。

バーに入って、目の前でお酒を黙って飲んでいるF君の表情に、たった一人でいるときのような繊細なものがふっと過ぎるのを見て、ああ、彼は昔と全く変わってないなと思う。普段はやんちゃで陽気だけど、時折そうした普段の顔とはまったく別の、静かでとても脆い感じの表情を一瞬見せることがあったのだ。

顔の表情に出るか出ないかは別として、誰でも静謐な秩序のような場所を心の奥深くに持っているのかもしれないと思う。

ビル・エヴァンスの伝記(これもF君に薦められた本)を読んでいたら、ビル・エヴァンスはクリシュナムルティを好きだったらしい。
「ピース・ピース」(静謐な音楽)という、ジャズというよりクラシックに近い曲は、なんとなくクリシュナムルティを連想させる。

ヘッセに「ガラス玉遊戯」という小説がある。ごく少数の選ばれた生徒たちを教える架空の学校があって、そこでは(数学・音楽・瞑想)を教えるという、まるでピュタゴラスの学校のような不思議な学校が出てくる。芸術と論理を融合させようとする教育で、そこで最も優秀な生徒が小説の主人公だけど、そのモデルになったのがクリシュナムルティと言われている。

「ピース・ピース」の、まるで海のうねりのような、左手のゆっくりした伴奏。タ、タンターンターンと繰り返されるその伴奏は、海の深ささえも感じさせるし、右手はまるで海にきらめく陽光のような美しい音を奏でる。

この曲を聴いていると、私たちは一人きりでいても、五線譜に書かれた音符のように単独に孤立しているのではなく、すでに全体の音楽の一部なんじゃないかという気になってくる。

たったひとり、一日中穏やかな海を眺めていたフィリピン人のお婆さんの沈黙のように、人と人をつなげるものは、F君の表情にふっと横切ったような、心の奥深くにある何かとても静謐なものじゃないだろうかという気がするのである。


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