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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №7 [文芸美術の森]

青春謎 2

         早稲田大学名誉教授  川崎  浹 

 学問の軌道から逸脱した高島野十郎は独学で絵の勉強をした。かれは学生時代から現在の渋谷区に住み、都内のあちこちの展覧会場に自由に出かけることができたが、そのなかでもいちばん身近だったのが港区溜池の三会堂である。
 これは大日本農会、大日本山林会、大日本水産会の三つの会をまとめた農林水産関係の本部で、事務所、会場、展示場があり、例えばダリアの花の品評会などが行われ、皇室の貴賓も訪れた。つまり高嶋弥寿の本業水産学につらなる因縁の場所であるが、同時に絵画彫刻の展覧会場でもあった。近くに黒田清輝が創設した白馬会研究所があったので、研究生たちの通路に当たり、白馬会や白樺派、草土社などの展覧会がひんばんに開催されることになった。白樺派は雑誌『白樺』によってだけでなく、三会堂で「泰西版画展」や洋画展覧会を開くなど、大きく啓蒙的な役割を果たしている。通説にあるように白樺派や劉生が最も野十郎に刺激と影響をあたえたことは否定できない。
 とくに劉生ひきいる草土社の第三回展(大正五年)から第九回展(大正十一年)までほほほ毎年ここで開催された。野十郎の二十六歳から三十二歳に当たる。白樺派自体はもっと早く明治四十四年(一九一一)から泰西版画展や洋画展を主催していたので、なおのことである。
 福岡県久留米からは坂本繁二郎や青木繁、すこしおくれて古賀春江という著名な画家が出ていた。なかに二科展にも入賞した松田諦晶を中心とするグループがあり、その来目(らいもく)会の東京での最初の集まりが池袋の坂本繁二郎の家で開かれ、三十歳の野十郎はそこに参加している。
 三年前に母カツが亡くなり、画家を目指すという意味では、母親を心配させるという憂慮からは解放されただろう。父親は弥寿の在学中に亡くなっていた。
 弥寿が水産学科を卒業した翌年母親カツが亡くなった。その一九一七年、帝政ロシアでは世界をゆるがす「十月革命」が起こっている。
 大正九年(一九二〇)から翌年にかけて野十郎と松田諦晶はひんばんに出会い、ときに古賀春江も交えて芸術論を闘わした。その後松田は地元の絵画啓蒙に尽力することになる。古賀春江はシュルレアリスムの影響をうけたポップふうの絵を措き、野十郎とはまるで一致しなかった。松田が拠点を久留米に移してからは、野十郎は地方での活動には参加せず、関係はますます疎遠になった。

 野十郎が在学中に残した《傷を負った自画像》に比べると、三十歳で描いた《絡子(らくす)をかけたる自画像》は僧衣をまとい、見る者を見返す禅修行者のつよい視線をもつ、真っ当に攻撃的な作品である。それはかれの自主独立の精神をうかがわせるものだが、その生真面目な風貌からは、もはや古賀春江の水着をつけた西洋女サーカスふうの発想や、桧田との論議とはかみ合わないことをにおわせている。高島野十郎がその後来目会から離れて行ったことが、後年地元ではだれもかれを知らなかったことにつながる。
 来目会に関与しなくなる過程は、かれがいよいよ独自の画境を打ち立てていったことの反映と思われる。三十三歳の《りんごを手にした自画像》には同じ攻撃的でも、地球をりんごに持ちかえて皮肉な表情を浮かべる余裕さえある。その余裕がでてきたのは野十郎が二十代後半の末と三十歳にかけての時期に、技法のさらなる習得と自身の精神的な方位を獲得したからにちがいない。
 すでに松田諦晶や同人たちと議論をかわす必要もなくなった結果を示すのが、大正十年(一九二一)九月、三十一歳にしてようやくに開いた「高島野十郎個展」である。現在、初個展であると推定されている。その会場がなんと三会堂だった。
 前述した美術拠点としての三会堂の機能についてのべたのは筑波大教授五十殿利治氏の「大正期における美術鑑賞環境についての一考察」である。私が驚いたのは、三会堂で開催された白樺派や草土社の美術展の経過報告もさることながら、氏が調査の段階で、高島野十郎の個展が三会堂で催されたのを発見したことにある。
 野十郎が学んだ帝大農学部は、国家によって施設を提供され財政的な支援をうけた三会堂につながっていた。とうぜん三会堂の展覧会によくかよい、白樺派や岸田劉生の影響をうけて、いわゆる草土社ふうの暗い色調に染まり、ついには三会堂で個展まで開いた。
 しかし、野十郎が白樺派や劉生の影響をまるまる受けたということではないと思う。
《傷を負った自画像》はもちろん《絡子をかけたる自画像》の眼光炯々のさま、《りんごを手にした自画像》のりんごで象徴した地球という存在に対する冷笑(シニシズム)ぶりも、白樺派と同系のものとは思えない。当時の野十郎はまだ真言密教の全否定の論理にふれていなかったとはいえ、禅宗の己を無と帰す「無」の哲学もまた、白樺派の人格的な理想主義とは一線を画するように思われる。
 野十郎の絵が劉生に似ているといわれるのは、当時『白樺』がドイツ十五、六世紀の画家デューラーを紹介し、これに劉生と野十郎がともに惹かれたので、同じような結果がでたにすぎない。またそれが大正期の若い画家たちが取り入れることのできる共通枠の一つでもあった。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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