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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №13

                              シリーズ≪琳派の魅力≫

            美術ジャーナリスト  斎藤陽一

            第13回:  本阿弥光悦「舟橋蒔絵硯箱」 
            (国宝。24.2×22.9×11.8cm。東京国立博物館)

13-1.jpg

2015年(平成27年)に、東京と京都を中心に、あちこちの博物館・美術館で、「琳派誕生400年」展が開催されました。ふだん見ることの出来ない作品がいくつも出品され、私も見て回るのに大忙しでした。
 では、どこから数えて「琳派400年」という節目にしたのでしょうか?

 それは、1615年(元和元年)に本阿弥光悦(当時58歳)が、徳川家康から京都洛北の鷹峯に土地を拝領し、ここに一族や職人たち、親しい上層町衆とともに移住して一種の「芸術村」を開いたことを「琳派元年」とする、というものでした。
 この地を世に「光悦村」などと呼びますが、本阿弥光悦はここでさまざまな制作活動を行いました。

≪異形の硯箱≫

 今回は、本阿弥光悦が作った「舟橋蒔絵硯箱」を紹介します。
 蒔絵などの漆工芸では、いくつもの複雑な工程を必要とするので、それぞれの工程に専門の職人がおり、分業制で制作されたものと推測されます。しかし、硯箱のデザインを考え、制作を指導したのは“アート・ディレクター”本阿弥光悦本人でしょう。

 一目見て驚かされるのは、蓋の甲が著しく盛り上がっている、その形です。
硯箱というものは、中に硯や墨、筆を入れて置く容器ですから、高さは4~5cmというのが普通でしょう。それが、光悦のこの硯箱は、高さが11.8cmもあり、標準サイズの硯箱の高さの2倍以上もある。形も、普通の硯箱が四角い形で作られているのに対して、光悦の硯箱は角がとれて、丸みを帯びています。

 蓋を取れば、中には硯と墨などが納められる実用的な作りになっているのですが、蓋の部分のこの大胆な造形は、硯箱というより、オブジェのような存在感を持っています。 

 13-2.jpg素材もまた、人の意表を突くものを使っています。
 蓋の面を覆っているのは金蒔絵。そこには、舟と水流がクローズアップでとらえられています。蓋の真ん中に黒い帯のように施されているものは「舟橋」。これは鉛の板で作られています。また、蓋のあちこちに散らされている文字は、銀の板を切り抜いたもの。

 造形も、素材の取り合わせも、当時の常識を覆すような大胆なもので、この異様な硯箱を見た人はさぞ驚いたことでしょう。

13-3.jpg「舟橋」とはどんなものなのか?
図の右側は、歌川広重が描いた「越中富山の舟橋」。ご覧のように、川面に舟を横並びに連ね、その上に板を渡して、橋として利用するものです。

 光悦の硯箱では、思い切ったクローズアップと切断画法(トリミング)によって、連ねた橋を真上からとらえています。(「鳥の眼視点」)
いずれも、日本美術ではよく使われる画法で、広重など江戸時代の浮世絵師たちもこれらの技法を駆使しました。

≪「舟橋」はどこに?≫

 蓋の上に「散らし書き」で書かれている文字は、次の和歌です。

 東路(あずまじ)の佐野の舟橋かけてのみ思ひわたるを知る人ぞなき
                 源 等(みなもとのひとし)
 (東国の佐野の舟橋を架け渡すように、思いをかけてずっと恋し続けているのを知っている人はいない)

 この歌を光悦は独特の書体「光悦流」で書いています。文字の配置も、通常の配列ではなく、あちこちに散らして書く「散らし書き」です。これは、ひとつには、デザイン的に配置された文字であると同時に、ここに書かれた歌を、読む人が知っていることを前提にした書き方でもあります。光悦を取り巻く上層町衆や公家たちは、平安王朝以来の伝統文化についての深い教養を持っていた人たちでした。

 では、この硯箱の蓋の上に書かれた和歌をどのように読んだらいいのでしょうか。
下図をご覧ください。13-4.jpg

 鉛板に書かれているのは、
「東路 乃 さ乃ゝ
 (    )かけて濃ミ」  
という文字で、「舟橋」という言葉は書かれていません。
 「舟」と「橋」は、金蒔絵で描かれた「舟」と、鉛の「橋」とで読み取る仕掛けになっているのです。

 続いて、上の方には、
「思 わたる を知 人そ」と書かれ、下部には「なき」と書かれています。

 最初、この硯箱の異様なかたちに驚いた人も、すぐにここに仕掛けられた趣向に気づき、その機智に喜んだことでしょう。これも、日本美術にしばしば顔を出す「遊びの精神」です。
 また、ここには、第8回で見た俵屋宗達(絵)と本阿弥光悦(書)とのコラボレーション「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」と同様、“絵と文字が対等なデザイン要素として同一画面に響き合う”という日本美術の特質を見ることができます。

≪かぶき風俗≫
 
 専門家が指摘しているのは、人目を驚かすこの異様なかたちが、光悦や宗達が生きた桃山から江戸時代初期の京で流行した風俗「かぶく」と関係あるのではないか、ということです。
13-5.jpg「かぶく」とは「かたむく(傾く)」に由来し、「異形」とか「異風」を表わす言葉です。当時、京の町には、好んで異様な風体をして歩き回る者たち、いわゆる「かぶき者」が大勢いて、徒党を組んで騒いだり、暴力沙汰を起こしたりすることもあったと言われます。
 そこには、日ごと強まる関東・徳川武家政権による京への圧力、それに対する京の人々の鬱屈した気分と反抗心が反映していたと考えられます。
 出雲阿国(いずものおくに)は、このような「かぶき風俗」を取り入れて、「かぶき踊り」を始め、おおいに人気を集めました。(現在の「歌舞伎」のルーツですね。)

 このような「かぶく」気風は、芸能だけではなく、狂歌や俳諧といった文芸や、染織や陶芸などの工芸分野にも波及しました。それはまた、本来、日本文化が持っている「遊びの精神」とも結びついていました。
 本阿弥光悦や俵屋宗達の、大胆で意表を突いた造形デザインが登場したのも、そのような時代の気分とも無縁ではないと思われます。

 次回は、本阿弥光悦が制作したもうひとつの硯箱「樵夫(きこり)樵夫蒔絵硯箱」を紹介します。
                                                                  (次号へ続く)


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