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じゃがいもころんだⅡ №12 [文芸美術の森]

草むしりの妙味

              エッセイスト  中村一枝

 年寄りの一人暮らしでも食事は大事、というよりも、根っからの食いしん坊である私は、夕方近くなると、何か美味しいものを作りたいと言う、腹の底からの欲求にけしかけられる。自分の好きな物、美味しいものを作りたいというのはこれは寝っからのおなかの思いでもある。この欲求が続くかぎり私は元気で生きていられるだろうと思いこんでいる。
 食べることが好きなことは、ある意味 、生きることが好きに通ずる。毎日、何が楽しくて生きているのと聞かれたことがある。朝起きてから寝るまで、心配事を含めて、好奇心が絶えることのないのは事実だ。何にもすることがないと言うことはない。やることがありすぎるのだ。小さな庭は雑草の宝庫である。ひと雨ごとにザザザっと草が生える。その雑草を抜くのも面白い。一つ一つ丹念に抜いても大丈夫、ざざっと抜いてもいいのだが私は一つずつ手間をかけて抜くのが好きだ。抜くたびにある種の快感が湧く。抜き終わった後の地面のすがすがしさはえもいわれない。こういう気分になれるというのも一種のもうけものだ。。
 私の母は年を取ってからもそうだが、若いころから庭の草取りが趣味だった。家の中に姿の見えない時はしゃがみこんで草を抜いていた。その時は正直へえと言う思いで眺めていたが、今母と同じ年齢になって、庭にしゃがんで草を抜いていると、母の、小さく丸くなった背中が懐かしく思われるのだ。「あら、またお母さんたら草抜いてるわよ。何が面白いんだろう」
 自分の先見のなさをつくづく思い知らされる。たしかにこんなに楽しく、気持ちの和らぐことってめったにないのだ。最後に立ち上がって、以前より少し滑らかに見える庭を眺めるその快感はかけがえがない。ただ最近しゃがむと言うのが少し辛くなってきた。腰は痛くないが体のバネがいかれてきている。それでも膝をついて、泥がついても平気なように少し厚めの無骨な膝あてである紐を付けている。ひざからずれないようにした、いわゆるきゃはん、そいうものにちょっと似ている。これをつけて草むしりをすると膝をついても平気なのでとても楽なのだ。若いころこんな自分を想像したことはなかった。母の年取っていくのを見ていても自分の身に起きることは想像できなかつたおたろかさである。
 老人になるというのはいつベンに浦島太郎がおじいさんになることではなかったのだ。手も足も少しずつ、少しずつ前にできたことができなくなって、いつのまにどうしてこうなったのと思ううちに、年を取るってこういうことかと気がついて、まあしようがないかと、思っているところである。

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