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雑記帳2019-7-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-7-1
◆鎌倉街道上道、今回は町田市小野路です。

丘陵を超えていく鎌倉街道は、基本的に迂回をしないという特徴があります。山があれば山なりに、谷があれば谷なりにすすむのです。そして、規模の大きな山に阻まれた時は、そこに切通道をつくって進みます。鎌倉街道を語るとき、切通は欠かせません。そのため、鎌倉街道が通っていた丘陵地で、ハイキングコースや遊歩道に切通が多くみられる場合は、そこが鎌倉街道古道である可能性が高いと言えます。

梅雨入り前の一日、この日集合した京王線多摩センターからバスに乗り、恵泉女子大学前から歩き始めました。開発された、大学の前を通る貝取大通りは現在の鎌倉街道のメインストリートにあたります。
メインの通りから外れて、大学の横に入る静かな道を、鳥の声を聞きながら暫く行くと、大山道へ通じる峠にあたるところから、林の中へ入って行く、細い、舗装されていない道があります。昔ながらのこの道こそ、鎌倉古道でした。

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恵泉女子大学正門
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古道への入口
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切通の鎌倉古道を行く

左右の林を切通した道は落ち葉が散り敷き、でこぼこはあっても足にやさしく、1キロほどの道のりを行くと、狭いながらも舗装された道に出ます。「小野路」です。古道からでたところに馬頭観音があり、「小野路宿」へ向かうこの道がかって大勢の人が行き交った道だとわかります。

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馬頭観音


小野郷が現在のどこにあたるのかは定かではなく、武蔵国一の宮である、多摩市聖蹟桜ヶ丘の小野神社あたりか、あるいは現在の府中市を小野郷とする説もあります。
いずれにしても、小野路の歴史は古く、小野路宿を通る街道筋は小田原道、神奈川堂、布田道、府中道、八王子道などがあり、それらの集積する小野路宿は古代から交通の要衝となりました。

小野路宿は古代から中世にかけて、宿場町として栄えました。宿場の定義がはっきりしていなかった時代のこと、戦国時代には一端衰退します。
小野路宿が再び活気を取り戻すのは江戸時代、大山阿夫利神社へ参拝する大山詣でが庶民の間に流行してからです。伊勢参りほどおおげさでなく、3拍4日の小旅行は江戸っ子たちに大人気だったそうです。
幕末の横浜開港以降は、絹の生産地である八王子と輸出港の横浜を結ぶ「絹の道」の拠点として栄えました。開発がすすんで、車の往来の多い通りは、かっての街道の面影をとどめてはいませんが、わすかに生糸の輸送に利用された時代をしのばせる雰囲気が残っています。

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街道で見つけた看板
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街道筋の側溝も管理が行き届いている
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板塀の住居がつづく

その街道に、中世以来の小野路の名主、小島家があります。
名主の仕事は年貢の徴収とともに、治安もつかさどり、武士と同じ、苗字帯刀を許されていました。小島家は関八州36村の中心的存在でした。中でも20代当主小島鹿之助は、幕末の新選組の活動に大きな役割を果たしました。
鹿之助は治安取り締まりのために市ヶ谷にあった試衛館に出げいこを頼みます。これにこたえたのが試衛館にいた近藤勇や土方俊三、沖田総司でした。当時近藤勇らは天然理心流の剣術道場試衛館で腕を磨き、各地に出げいこに赴いていました。中でも足しげくおとずれたのがこの小野路宿でした。小島家には近藤勇の手紙や稽古着、新選組旗印などが伝わり、屋敷内にある資料館に保存、公開されています。

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小島資料館
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資料館は小島家の敷地内にある

近藤勇はかなり筆まめな人だったらしく手紙の量は相当なものです。目を引いたのは七言絶句の掛け軸でした。名声や金銭、華美な暮らしは自分の求めるものではないという自筆の詩からは、近藤勇の人柄がつたわってきます。稽古着の背中のどくろの刺繡は、今みると、むしろ愛嬌のあるように思えます。試衛館の方は跡を示す標識が残るのみですが、ここには近藤勇の人となりが数多く残されていました。
現在の小島家当主は24代。資料館の2階には代々の当主がつけた日記もうずたかく積み上げられていました。これらを保存管理していくのは大変なことだと思わされました。

古道を出て小野路宿へむかうまえに、ちょっと寄り道して布田道を行った先に、「関屋の切通」がありました。現在の調布市布田に通じるこの道は800年前に作られたものです。見事な切通のこの道を、幕末には近藤勇たちが通ったのでした。
道場のある市ヶ谷から小野路宿まではおよそ20キロ。現代人よりずっと速足だった彼らにしてみれば3時間もかからなかったようです。ちなみに坂本龍馬は土佐の藩邸から千葉道場までの15キロを毎日通ったということです。

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布田街道の見事な切通

小島資料館の向いには「小野爾宿粛里山交流館」があります。江戸時代、宿場にあった旅籠を改修し、観光交流の拠点として再整備した施設です。お昼は交流館でいただきました。
交流館で働いているのは地域のボランテイアの人たち。食材はすべて地産地消です。
そばに似た地粉のうどんが美味しかった。デザートは地元の恵泉女子大生がつくる里山マドレーヌ、コーヒーは家政学部で自家焙煎したものだそうです。
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小野路宿里山交流館
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うどんに至るまで食材はすべて地場産

床の間にかかった軸は万葉集からのものでした。
 「赤駒を 山野に放し捕りかにて 多摩の横山 あゆみ行く(?)らん」
万葉の時代、この地からは毎年17頭の馬が大和朝廷に献上されていたということです。

小野神社は交流館のとなりにあります。
神社の創建については明らかではありませんが、小野路は平安時代、武蔵国の国司だった小野孝奏の領地でした。鎮守の小野神社は小野孝奏の7代前の小野篁をまつったものだそうです。ご存知、小野小町は小野篁の孫という説もあります。
武蔵国には府中と多摩、町田に小野神社が3社あります。いずれも学問の神様としてしられています。そのほかに雷神の性格ももっているといわれているのが、ここ町田小野路宿の小野神社だけです。菅原道真が大宰府で亡くなり、魂を鎮めるために天満宮がうまれたのが900年代半ば、天満宮が出来てまだ20年しか経っていないころのこととて、たたりをおそれたのかもしれません。

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小野神社

境内にあった小ぶりの古鐘は戦に持ち運ぶに手ごろな大きさだったため、文明年間(1469~1487)山内上杉と扇が谷上杉が戦った折、山内上杉によって陣中鐘として持ち去られたことが伝わっています。この戦いは「享徳の乱」と呼ばれ、応仁の乱の関東地方でのさきがけになりました。信長登場の70年前に起こった応仁の乱は、およそ40年続き、戦国時代へとむかうのです。

小野神社を後にして、残るは小野路城址まで、坂道を上ったり下ったり、約1時間の道降りをひたすら歩きました。
小野路城は鎌倉幕府の御家人となった小山田有重の拠点である小山田城の出城として築かれました。関東地方の山城としては最古の部類に属します。
小山田氏は秩父平氏の流れを汲み、有重は御家人となったのち同族の畠山重忠と争って滅ぼしたことがきっかけで城を失いました。一族は、戦国時代、甲斐の武田氏に従って岩殿城を任された小山田信繁につながります。
小山田氏が去った後の一帯は、しばらくの間、執権の北条氏がおさめていましたが、時代が下って1477年の「長尾長春の乱」で小山田城とともに、小野路城も落城しました。
落城した本丸跡には小さな祠が建てられました。参道もない祠はそれだけに、昔の姿を保っていると言えます。

二重の土塁が築かれた本丸跡は思いのほか広く、すぐ下に水場があることから、単なる出城ではなく、生活の拠点となっていたことがうかがえます。また、見晴らしの良い本丸からは、遠くから攻めてくる軍勢もよく見え、土塁に守られた本丸は攻めるに難く、恰好の山城だったことがわかります。

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小野路城を囲む土塁のあと
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小野路城址の祠

本丸の下、古道にもどって、林の中にある水場は「小町井戸」と呼ばれています。小野小町が目を洗ったら眼病が治ったという伝説もあります。今は濁って見えますが、標高120メートルの山頂近くにある湧水は珍しく、量は多くはないものの、一年中枯れることはなく、小野路城の人々の生活を支えました。

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小町井戸

なお、甲斐の地で岩殿城主になった小山田信繁は徳川・織田軍から敗走する勝頼を裏切り、勝頼は天目山で自害します。信繁は信長に出仕しましたが、のちに甲斐善光寺で処刑され、小山田氏は滅亡しました。

古道が野津田街道に通じる交差点に古びた道祖神を見つけました。

開発の進む東京では、道祖神が残っているところは少ないのだそうです。

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野津田街道の道祖神

のどかな田園風景がひろがり、アップダウンも多い、小野路城址への道は、鎌倉古道の雰囲気がよく味わえる道でした。街歩きとちがい、足元はしっかりをお薦めします。

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