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梟翁夜話(きょうおうやわ) №42 [雑木林の四季]

アナログの音や懐かし(上)

                 翻訳家  島村泰治

ある日のこと、物置でもの探しをしていたら、LPの山にぶち当たった。ラベルを眺め、ジャケットの絵柄などから想い出に耽る。モントーのチャイコ5番とかワルターのブラ4など、昔の音環境が思い出されて、しばし懐旧の念に浸る。

78回転の時代が去ってLPが颯爽と出現したのが1950年ちょっと手前か、50年代なかばには留学先のアメリカで好きな古典をLPで聴いて悦に入っていた。貧乏生活でろくな金もないのに、音楽鑑賞クラブの会員になってボーナス版などを集めて聴き、小金ができれば1枚、2枚と買いためた。そんなLPが200枚ほどはあろうか、斯くして物置に山積みにされていたわけだ。

インターネットラジオからのストリーミングやユーチューブから落としたデータをiPodやらiTunesで聴く習慣が定着し、昨今は音楽に加えてオーディオブックで文学作品をウォークマンに取り込んで聴くなど、何時かなデジタル音楽に浸かり切っていた。音質云々に一向に無頓着になっていたのである。

ふと思いついて、その日見つけたLPからオーマンディーのシェヘラザードを部屋に持ち帰って聴いてみたのである。埃だらけのレコード盤は針音がきつかった。聴くに耐えぬと思った刹那、弦のトゥッティが高音域に広がったとき、針音の向こうに鳴る音色にどきっとした。ヴァイオリンの高音がしっとりと生々しい。ついぞ聴いたことのない弦の音色だ。針音を乗り越えて生命感のある音が聴こえる。デジタル音の無味乾燥を改めて感じた瞬間だった。慄然とした。

慣れとは恐ろしい。カセットテープの波で書斎の隅に積まれていたLPたちは、まだテープのヒス音を嫌ってなおターンテーブルに載った時も折々にあったが、やがて音の透明感と簡便さが決め手のCDディスクが登場するや、音楽鑑賞の現場から締め出された。忘れ去られて物置へ消えたのである。

思えば迂闊なことだった。そもそも「楽音」についての感覚に狂いがあった。生音(なまおと)が生かされてこその楽音ではないか。生演奏の魅力はそこにあるわけで、並並ならぬ木戸銭を払ってコンサートに赴くのもそのためだ。耳触りがよいからとデジタルに走り、その透明感に聴覚を冒されて、わが耳は針音やヒス音の向こうに響く名演奏・名唱を聴き取れなくなった。いや、聴くことを忘れていたのである。味の素に堕して鰹の出汁を忘れる伝だ。

○閑話休題:レコード屋のおばさん

蒲田に生まれ育ち、南六郷は七辻近在を遊び場にしていた。蒲田駅に通じる昭和通りには、両側に馴染みの店が並んでいた。飴屋や鳥黐(もち)などを賄う店や辻の角の本屋など、子供が屯する店が結構あった。戦中のこと、子供が街に溢れていた。

親父が音楽好きだったから、といっても流行り歌や演芸ものだが、店の名前は忘れたが贔屓のレコード屋に始終出入りしていた。レコードはもちろん78回転で、脆くてよく壊れた、あれである。親父のものがほとんどだが、時には子供用のものを十度に一度は買ってくれた。

そんなことでレコード屋のおばさんとは結構な顔見知りで、親父の代わりによく出向いた。レコード針の調達である。一回一本だから結構消費したもので、4×3×1センチ位のブリキの小箱に60本ほど蝋紙に包まれて入っていた針を買いに走らされたものだ。可笑しなもので、たかが流行り歌のこと、針音などは録音の一部だぐらいに感じていたように思う。音が鳴り出すまでの2秒ほどの針音は、あれでなかなか味なものだった。楽音云々などに無意識なころの話で、針音は織り込み済みの「音楽鑑賞」だった。

(次号に続く…)

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