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コーセーだから №52 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」  13

           (株)コーセーOB  北原 保

提案がみな図に当たる/小売店をチェーン化

〝心の鏡〟の死

 こんなことがあった――東洋堂のセールス時代、高橋三四郎社長はセールスマンを集めて「どうしたら商売が発展するか」を話し合っていた。すると小林氏はセールスとしての考えを出した。ところが、変わっているのは一度出した案は絶対に引っこめない。案が採用されないと、次の会合でも同じ案を出す。ついに高橋社長の方がなっとくして小林案を採用したこともたびたびだったという。
 「その小林案がどれもこれもアイデアルで当たった人ですから大変な人ですね」
 昔日を思いうかべながら、高橋社長が「こんな有用なサラリーマンはいなかった」というのも無理はない。その当時、アイデアルがどこよりも早く小売店のボランタリーチェーンをつくり「アイデアル会」を組織して戦前業界で信用あるメーカーにのし上がったのも小林孝三郎セールスマンの努力も大いにあったのだ。
 「あれは東京市内(当時)をセールスしていたころですね。乱売の時代にモンドというドイツの水白粉(みずおしろい)だけが、モンド会を作り、定価で販売されていることを知り、この方法なら小売店もメーカーも絶対につぶれないと考え、こつこつ調べて案に出した。次いで、〝モンド〟をまねて〝アイデアル会〟もつくたりしてね、乱売しなければ小売店ももうかるということがわかって資生堂などもはじめましたけどね」
 小林氏の考えたこの「アイデアル・ネットシステム」は、戦後、コーセー化粧品に誕生した「コーセー・リングストアシステム」に発展していった。
 東洋堂時代、入社したてのころ、小林氏の月給は5円(大正8年)だったが、大正13年に結婚して家庭を持ったときは月給63円になっていたという。その月給の上昇からみてもいかにアイデアルにとって優秀な社員であったかが想像できる。
 「ちょうどそのころ私が27才のときでしたよ。〝心の鏡〟のように思っていた母が亡くなったんです。乱暴者の私をいつも見守ってくれたのはこの母なんです。その母の死を見てやれませんでしたね」
 母すゑさんは胃ガンで死亡した。一度は東京の青山外科という病院に入院して手術して小康をえたのだが、田舎に帰って静養しているうちに病状が悪化した。全国をセールスでまわっていた孝三郎は出張先から帰郷の日を知らせる手紙を出していたが、セールスの都合で帰れなかった。その日、母は他界した。その朝、母は「今日は孝三郎が来るといったからあの子は必ず来るよ」といっていた。が、孝三郎がこないのを知ると「今日は気分が悪いから孝三郎が見たら心配する。こなくて良かったよ」といって死んだという。
 「70才の坂をこして、思い残っているのは母親の死に水をとってやれなかったことです。幾才になっても母は母、子は子というのがいまよくわかるような気がしますよ。その思いは私の心に秘めていたんですけどね」
 母すゑさんは孝三郎思いだった。父親に叱られても母だけは味方だった。孝三郎少年が東洋堂に小僧としてはいったころ、母のすゑさんは10才ちがいの弟聰三にいったものだ。
 「うちの孝三郎はなかなか辛抱強い子だよ。東洋堂さんの店に住みこんで、食事はお新香と味噌汁の日はいい日、麦飯に塩をかけて食べる日もあるんだよ」
 子どもだった弟の聰三は「それじゃ兄ちゃん死んじゃうじゃないか」とは母にいったことがあったという。が、母親のすゑさんだけは孝三郎の辛抱がやがて実を結ぶ日を信じていたにちがいない。
 「母の死はむしろ自分をはげますムチでしたよ。そのころやたらに人生論にとりつかれて本を読みました。それが人間として大きく私を成長させたんです」
                                        (日本工業新聞 昭和44年10月22日付)

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小林孝三郎が「心の鏡」と慕った母・小林すゑ

*東洋堂(株式会社高橋東洋堂)とアイデアル について
高橋東洋堂は1893年(明治26年)高橋志摩五郎氏が創業した化粧品メーカーで、高橋三四郎氏は2代目社長。小林孝三郎が入社した1912年(明治45年)ころは下請け製造を主としていたが、1921年(大正10年)から自社ブランド「アイデアル」を発売。同年、小林孝三郎は製造部門から販売部門へと異動になった。なお、高橋東洋堂は戦後も化粧品メーカーとして事業を継続していたが、次第に不動産事業が主力となったため、創業者の孫に当たる高橋淳夫氏が別会社(株式会社コンテス)を創業し、化粧品事業を継承している。
*アイデアル・ネットシステムについて
アメリカのボランタリーチェーンに学んだチェインストア組織(現在の制度品組織の原型)を1923年(大正12年)に作ったのは資生堂といわれる。同年、小林孝三郎は営業先の神田の化粧品店でモンド会の組織を知り、独自に定価販売の制度の構想を練り上げた。それを翌年に高橋三四郎社長に提言し、定価販売の会組織を結成することとなった。最大の特徴は定価販売制度にあり、「理想網販売組織(アイデアル・ネットシステム)」と名づけられた。1925年(大正14年)1月に「東京アイデアル会」が組織されたのをかわきりに全国に広がり、高橋東洋堂躍進のきっかけとなった。

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大正11年9月には給与が75円になっていた

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