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多摩のむかし道と伝説の旅 №30 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

-矢川水辺から谷保田圃へ天神様と為守伝説を巡る道-4

                   原田環爾

 国立郷土文化館の前を後にし、住宅街を抜けると再びはけに出る。はけ上とはけ下を通る両方の道あり。はけ下はヤクルト研究所裏の水路沿いの細い道で、抜けると城山公園の入口で、傍らに江戸時代後期の入母屋造りの古民家旧柳沢住宅がある。別称たくあん屋と呼ばれていたという。
30-1.jpg 城山は昼なお暗い鬱蒼と樹木で覆われた公園である。鎌倉時代末~室町時代初期に造られた三田氏の城館跡で、土塁に囲まれた二つの郭と自然の地形を利用した空堀が残されている。現在城跡内は三田氏の子孫が居住する私有地で、三田城主の先祖は三田六左衛門と力説しているが証拠はない。発掘を許可しないので詳細不明のままである。また城山は津戸城(津戸屋敷)とも言い谷保天満宮と深い関係にある。谷保に落ちてきた菅原道武が最初に身を寄せた所である。城山の前はのどかな田畑が広がる。田畑の先の中央自動車道の向こう側の多摩川低地は、かつては多摩川が氾濫すると水をかぶって池や沼ができる所で、そんな一つに「荒田のたまり」があり、津戸ヶ淵と言われてきた。谷保に伝わる津戸為守の津戸ケ淵伝説の発祥地はこの辺りのこととされる。今は下水処理場になって跡形もない。
30-2.jpg 津戸ヶ淵伝説とはこんな話である。今からおよそ千年も昔のこと、谷保天神と多摩川の間の谷保田圃には不気味な沼があった。沼地には大蛇が棲み、農夫を沼に引きずり込む等して里人に危害を与え困らせていた。その話を聞いた津戸為守が自ら沼に出向いて、一刀のもとに大蛇を切り捨てて退治したというものである。
 城山南縁の細い流れに沿って進むと広い通りに出る。通りを渡ると再び豊かな府中用水が現れる。用水路に沿ってのどかな田園地帯を進む。左の畑の向こうにかつては国立乗馬クラブがあった。山口百恵と三浦友和夫妻がメンバーだったという。今は市民農園になっている。T字帯に出ると左折し赤い天神橋を渡って北に向かうとまもなく谷保天満宮に到着する。
 30-3.jpg天満宮のすぐ傍の甲州街道下からは、千年も昔から絶えることのないと言われる常盤の清水と呼ばれる湧水が湧き出して、細い水路を形成して天満宮の外周を流れている。延保の頃、筑紫のあるお坊さんがこの谷保天神社に詣でた折、この泉を「ときわのしみず」として和歌を一首詠んだという。常盤の清水の北側辺りは「清水の立場(タテバ)」と言い、府中宿と日野宿の中間に位置する憩いの場で、清水茶屋があったという。(江戸名称図会に記載)天満宮の境内には社殿、座牛、三郎殿のほか東側には敷地約1000坪の梅林がある。ところで谷保天満宮は奇妙なことに表通りの甲州街道を背にした低い谷底にある。実は初期の甲州道は社殿の南側にあった。すなわち甲州道は府中から段丘上を通り、谷保天満宮の前で一旦段丘下に下っていた。従って昔は本殿より東方に大門筋があった。現在の表大門は新道が出来てから付け替えられたものだ。
30-4.jpg 余談になるが、やぼったいことを野暮天(やぼてん)という俗語があるが、その由来は谷保天神からきているという面白い話がある。江戸時代の頃、経営の苦しい谷保天満宮の宮司や氏子が、その対策としてご神体を開帳することで何とか浄財を集めようと考え、賑やかな目白へ出かけてご開帳をした。それが大いに受けて賽銭が沢山集まった。丁度この時、有名な狂歌師大田南畝がこれを見て、ご開帳の時期が神無月(10月)であったこと から、本来なら神様はこの月は出雲大社へ行っていないといけないのに、ということでこれを皮肉り次のような狂歌を残した。「神ならば 出雲の国へ行くべきに 目白で開帳やぼのてんじん」。この狂歌が元になって「やぼてん」という俗語が生まれたという。
30-5.jpg なお「谷保村の禁忌」というものがある。一つは「梅は食うとも核(さね)食うな 中に天神様が寝てござる」という歌があるように、天満宮の氏子は梅の種の中には天神様がいるから食べない。食べると罰が当たるというもの。二つ目は生れた子供に「菅原道真」の四文字中1字もとってつけてはいけないというもの。三つ目は雉菅公のお使い鳥なので獲っても食べないというもの。
 最後に谷保駅への帰路に滝の院と安楽寺跡に立寄り、旅の終わりとする。
   

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