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余は如何にして基督信徒となりし乎 №67 [心の小径]

第十章 基督教国偽りなき印象―帰郷 8

                    内村鑑三

  もう一つ基督教国の特徴を述べてそれについて善事を語るのを止める。最近の生物学がにぎやかな食後の話旗にしている、基督教における一つの教義がある。― 余は復活のことを言っているのである。ルナンとその弟子たちをしてこの教義を何とでも好きなように解釈せしめよ、しかしこの独一無二の教義の実際的意義はいかなる思考傾向の『歴史学派』によっても看過され得ないのである。異教徒は一般にかくも速かに老衰に陥るが、しかし基督信徒は一般に全く老衰を知らず、死そのものにおいてさえ希望をもつのは、それは何故であるか。まだ二十歳台であるかのようになお未来のために計画しつつある八十歳台の人々は、我々異教徒にはほとんど奇蹟的驚異の的(まと)である。我々は四十歳以上の人々を老年の中にかぞえる、しかるに基督教国では五十歳以下の人は大なる責任の地位に適するものとは考えられない。我々は自分の子供が大人になればすぐ休息と隠退を考える、そして孝行の教訓に支持されて、我々は若い世代の人々に世話をされ大事にされる懶惰(らんだ)な安逸にあずかる資格を与えられる。宣教師ジャドソンは、その生涯にわたる艱難(かんなん)の後に叫ぶのである、余には休息すべき永遠があるのであるから、生きてさらに働きたいとおもうと。ヴィクトル・ユーゴーは八十四歳のときに言うことができる、『余はこの世を祖国として愛するが故にあらゆる時間を活用する、余の仕事は始まったばかりである。余の記念碑はほとんどその土台を出ていない。余は永久にそれが高まりまた高まり行くのを見て喜ぶであろう』と。老年の慰めを酒杯に求めたシナ詩人陶淵明、あるいは頭に白髪が現れるやいなや忙しいこの世から御免こうむる余の国人の多くと、以上の人々とを比較せよ。不敬虔(ふけいけん)な生理学はすべてこれを食事、気候、等々の差違に帰する、しかし我々もまた、米と季節風(モンスーン)とともにあっても、過去に我々の常態であったものとは異なるものであり得るというその事実は、何か生理学的より以外の説明を要求するのである。
 余は基督教国の進歩性をその基督教に帰する。信仰と希望と愛、死とその使者に挑んでこれを退(しりぞ)けるこの三つの生命の使者が、過去千九百年間それに働きかけて、それを今あるようなものとしたのである。
   『生命は、その最高の敵なる死の、
    空(むな)しき憎悪を嘲る、 - 然り、
    暴君の王座なる墳墓(ふんぼ)の上に坐し、
    その仇敵に対する大勝利をもって
    おのが食物となすなり。』--ブライアント
これらの人々の罪はいまなおきわめて大きくあっても、彼らはそれを征服する力をもっている。彼らは癒すことはできないと考えるいかなる悲しみもまだもっていない。基督教は、ただこの力だけのためにも、有つ価値はないか。        
 著教外国伝道の存在理由(レーゾン・デートル)は? 余はすでにそれは述べたと思う。それは基督教それ自身の存在理由である。デーヴィツド・リヴィングストーは言った、『外国伝道の精神は我らの主の精神、彼の宗教の真の特質である。拡散的慈善は基督教そのものである。それはその純粋性を立証する不断の伝播を必要とする』と。ひとたびそれが伝播を中止して、それは生きることを中止する。神は人類のかくも大きな部分を依然として異教の暗黒の中に捨てておかれるのは何故であるかを、諸君はかつて考えたことがあるか。余は、おもう、それは諸君の基督教が暗黒を減少させようとする諸君の努力によって生きて生長するためであると。一億三千四百万の異教徒がまだある! 神に感謝せよ、まだそれほど多数のものがある、我々はアレキサンダーのように征服せられる世界の不足を嘆く必要はないからである。神は諸君に故国に留まり、諸君の財布の紐(ひも)をひきしめて諸君の心を異教徒に対して閉ざしてわくよう告げたもうと仮定せよ。諸君は無用な負い目から免かれさせてくださるのを彼に感謝したいと思うか。もし基督教外国伝道は諸君の負い目であり、それに対して諸君には神の一層の祝福があって諸君に報い異教徒の感謝があって諸君の心を暖かくしておかなければならないのであれば、諸君はそれに参加することを止める方がよいと余は信ずる、神も異教徒も諸君からは何の善きものをも得ないからである。『もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。』それは使徒・パウロであった。余は信ずる、彼には最大のの試練は伝道者であることではなかったと。拡張的生命が彼のうちにあって、彼は普遍的愛へ拡張せずにいられたであろうか、そしてそれが基督教外国伝遇である。『伝道地の困難』、『異教徒の無礼』、その他卑怯なことを呟くよりは、我々は何ら語るべき基督教をもっていないと、ちゃんと正直に白状した方がよい、と信ずる。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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