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立川陸軍飛行場と日本・アジア №180 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

さらば、立川

        近現代史研究家  楢崎茂也

 朝日新聞社航空部、羽田に引っ越し
 東京朝日新聞社航空部は、関東大震災で洲崎の飛行場が使えなくなり立川に移ってきましたその2年後、朝日新聞社は初風・東風による「訪欧大飛行」を成功させましたが、この2機は立川陸軍飛行場をホームグランドにして訓練したことは連載NO.20からNO.24に書いたとおりです。また、立川を拠点とする東京大阪間の定期航空便を始めたのは、実質的には朝日新聞社が経営する東西定期航空会でした(連載NO.46)。
180-1.jpg ライバルの東京日日新聞社の航空部門は、昭和3(1928)年に立川に越して来ましたが、満州事変の2ヶ月後には早々と羽田に移っています。一方、東京朝日新聞社は、その2年後に当たる昭和8(1933)年6月23日、ようやく羽田の東京飛行場で格納庫の地鎮祭を行ないました。格納庫の広さは280坪と、思いのほか小さいですね。
 格納庫がほぼ完成した9月26日、東京朝日新聞航空部が立川から羽田に移動しました。当日は、訪欧大飛行でローマまで飛んだ東京朝日新聞河内航空次長、上京して来た大阪朝日新聞久航空次長が、第五連隊などに挨拶回りをしました。そして、正午に熊野飛行士が操縦するコメット機が離陸、河内次長が操縦するプスモス、久次長が操縦するプスモスがこれに続き、12時22分には羽田飛行場に着陸します。前日にはサムルソン3機、義勇号などと道具類などが羽田に運ばれており、立川陸軍飛行場の格納庫はすっかりカラになった訳です。180-2.jpg午後2時には、熊野飛行士が新潟に向けて羽田からの初飛行に飛び立ちました。東京朝日新聞には、立川から去るについて感想が何も掲載されていないのが何となく残念です。
 10月13日には航空部格納庫の落成式が行なわれ、新野飛行士が操縦するオートジャイロ(回転翼により揚力を得て、プロペラで推進力を得る航空機)の飛行が披露されました。“格納庫は思いのほか小さいですね”と書きましたが、飛行機8台は優に格納できる堂々たるものだったようです。写真を見ると、屋根が平らではなく蒲鉾形で、鉄骨ダイヤモンド・トラスト式という最新型です。朝日新聞社の移動に伴って、全面支援を受けている日本学生航空連盟も羽田に移ります。
「朝日よ、さらば」ですね。

 老舗の日本飛行学校も羽田に移転
 連載NO.4で紹介したように、日本飛行学校は大正12(1923)年6月に立川陸軍飛行場の西地区に移って来ています。飛行学校の木暮主事は関東大震災について次のように回想しています。
“それに増しての思い出は例の関東大震災の時であろう。東京方面偵察のために小川君がソッビース機を操縦して飛んだが多摩川矢口河原に不時着したものだ。陸軍のように日の丸の印がなくローマ字の機識のある民間機だから付近の人々が驚き「それ外国の飛行機が地震につけ込んで襲撃した」と大騒ぎ、手に手に竹槍や刀を持った群衆に取囲まれて大騒ぎしたナンセンスもあった。”(「東京日日新聞・府下版」1933.9.28)朝鮮人虐殺を彷彿とさせる描写です。
 木暮主事は、移転当時の飛行場について“この頃の立川は人家は北口と駅前、本村付近だけで自動車は一台もなかった。飛行場は東半分を五連隊(五大隊は翌年連隊となる)、西半分を民間で利用したが、野草ぼうぼうで飛行場内に不時着した飛行機は格納庫の屋根に上がって見ないと、どこかはわからなかったのだから、今の人にはうそのようだ。”と書いています。
 移転先に頭を悩ませた日本飛行学校も、ようやく9月初めには羽田に移転できることが決まりホッと一息、木暮主事は“住み慣れた立川もさらばです。練習生も今月の卒業生を出せば残り八名で練習の心配もなくなりました。羽田移転もどうやら決まって学生も安堵しています。しかし、民間の宗主として飛行を始めて11年、やむを得ぬといい乍ら、この広い飛行場にも身の置き所がなくなったと思うと全く涙がでます。”(「東京日日新聞・府下版」1933.9.7)と語ります。
180-3.jpg 日本飛行学校が送り出した一等飛行士は9人、二等48人、三等20人、計77名の飛行士を世に送り出しました。このうち女性は、朴敬元さん(連載NO.106などで紹介)、正田マリエさん(連載NO.157)、李貞喜さん(連載NO.106)の3人の二等飛行士と、本登勝代さん(NO.70)、前田あさのさん(NO.17)の2人の三等飛行士、三等飛行士の技量を持ちながら急死した北村兼子さんの計6人でした。しかし、残念ながら彼女たちの誰一人として飛行士の資格を生かした職業に就くことは出来ませんでした。
 8月30日、日本飛行学校は、小川立川町長などを招いてアヴロ、アンリオなど5機が名残の飛行を立川陸軍飛行場で披露しました。
 
180-4.jpg 羽田に移った日本飛行学校
 羽田の日本飛行学校の校舎は、ご覧の通りドライ・コンストラクション建築のモダンな建物です。事務所の隣には機体製造室、発動機室、2階には初等科教室、機関科教室、二等飛行士以上が空中航法などを学ぶ教室が並び、相羽有校長以下職員14名が教育に当たります。格納庫は、朝日新聞社同様にダイヤモンド・トラスト式で、民間飛行学校ではどこでも採用していない最新式の自慢の格納庫です。
  こうして日本飛行学校は一新されましたが、連載NO.143“飛180-5.jpgべぬ鳥人 日本飛行学校に入学者続々”で紹介した“二等(一等でも)飛行士では就職出来ないので、全く卒業してみたところで何にもならない事になる“という木暮主事が嘆いた状況は続いています。
 
 御国飛行学校は廃校に
 「空の宮様」山階宮武彦殿下が始めた山階宮飛行機練習所の後身である御国飛行学校は、移転先を見つけることが出来ず廃校を決めました。伊藤酉夫校長は廃校に当たって次のように語っています。“山階宮殿下の練習所を大正十四年に開かれて、昭和四年に私に経営を委任されて前後九ヶ年、陸軍の援助と立川町各位の御厄介にな180-6.jpgったことは唯感謝の外ありません。此の由緒ある学校を今廃校にすると云うことはもとより私の不明の致すところ、甚だ慚愧に堪えぬことでありますが。現在の民間飛行家養成の現状から見て将来に更生するための一時廃校と決定しました。職員十四名に就いては夫々行くべき道を与え、学生二名には十一月一杯位残務整理の傍ら練習させて、卒業させてやりたいと思います。”(「読売新聞・三多摩読売」1933.10.3)責任者として堂々たるコメントですね。御国飛行学校が、なぜ日本飛行学校のように羽田に移ることが出来なかったかは不明ですが、連載NO.37で紹介したように、山階宮の心の病は進行しており、学校の存続を働きかけることは出来なかったのだと考えられます。
 こうして民間航空は立川を去り、飛行場は再び陸軍専用に戻ったわけです。

写真1番目  地鎮祭場         「東京朝日新聞」1933.6.24
写真2番目  落成した本社格納庫とオートジャイロ 「東京朝日新聞」1933.10.14
写真3番目  現在の日本飛行学校の陣容  「東京日日新聞・府下版」1933.9.30
写真4番目  日本飛行学校事務所  「空」(工人社刊)1933年11月号(創刊号)
写真5番目  格納庫と練習機各型        同上  
写真6番目  廃校となった御国飛行学校 「読売新聞・三多摩読売」1933.10.3


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