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渾斎随筆 №34 [文芸美術の森]

一片の石 1

                         歌人  会津八一

 人間が石にたよるやうになって、もうよほど久しいことであるのに、まだ根気よくそれをやってゐる。石にたより、石に縋(すが)り、石を崇め、石を拝む。この心から城壁も、祭壇も、神像も、殿堂も、石で作られた。いつまでもこの世に留めたいと思ふ物を作るために、東洋でも、西洋でも、あるひほ南極の極(はて)でも、昔から人間が努めてゐる姿は目ざましい。人は死ぬ。そのまま地びたに棄てておいても、膿血や腐肉が流れつくした後に、骨だけは石に似て永く遣るべき素質であるのに、遺族友人と稱へるものが集って、火を鮎けて焼く。せっかくの骨までが粉々に砕けてしまふ。それを拾ひ集めて、底深く地中に埋めて、その上にいかつい四角な石を立てる。御参りをするといへば、まるでそれが故人であるやうに、その石を拝む。そして、その石が大きいほど貞女孝子と褒められる。貧乏ものは、こんな点でも孝行がむづかしい。
 なるほど、像なり、建物なり、または墓なり何なり、凡そ人間の手わざで、遠い時代から遣ってゐるものはある。しかし遣ってゐるといっても、時代にもよるが、少し古いところは、作られた教に較べると、千に一つにも當らない。つまり、石といヘビも、千年の風霜に曝露されて、平気でゐるものでは在い。それに野火や山火事が崩壊を早めることもある。いかに立派な墓や石碑でも、その人の名を、未だ世間に忘れきらぬうちから、もう押し倒されて、倉の土臺や石垣の下積みになることもある。追慕だ研究だといって跡を絶たない人たちの、搨拓(とうたく)の手のために、磨滅を促すこともある。そこで漢の時代には、いづれの村里にも、あり飴るほどあった石碑が、今では支那全土で百基ほどしか遣ってゐない。國破れて山河ありといふが、國も山河もまだそのままであるのに、さしもに人間の思ひを籠めた記念物が、もう無くなってゐることは、いくらもあるまことに寂しいことである。
 むかし晋の世に、羊怙といふ人があった。學識もあり、手腕もあり、情味の深い、立派な大官で、晋の政府のために、異国の懐柔につくして功があった。この人は平素山水の眺めが好きで、重陽に在任の頃はいつもすぐ近い●(山+見)山といふのに登って、酒を飲みながら、友人と詩などを作って楽しんだものであるが、ある時、ふと同行の友人に向つて、一体この山は、宇宙開闢の初めからあるのだから、昔からずゐぶん偉い人たちも遊びにやって来てゐるわけだ。それがみんな湮滅(いんめつ)して何の云ひ傳へも無い。こんなことを考へると、ほんとに悲しくなる。もし百年の後にここへ来て、今の我々を思ひ出してくれる人があるなら、私の魂魄は必ずここへ登って来る、と嘆いたものだ。そこでその友人が、いやあなたのやうに功績の大きな、感化の深い方は、その令聞は永くこの山とともに、いつまでも世間に傳はるにちがひありませんと、やうやくこのさびしい気持を慰めたといふことである。それから間もなくこの人が亡くなると、果して土地の人民どもは金を出し合ってこの山の上に碑を立てた。すると通りかかりにこの碑を見るものは、遺徳を想ひ出しては涙に暮れたものであった。そのうちに堕涙の碑といふ名もついてしまった。
 同じ頃、晋の貴族に杜預といふ人があった。年は羊怙よりも一つ下であったが、これも多識な通人で、人の気受けもよろしかった。襄陽へ出かけて来て、やはり呉の國を平げることに手柄があった。堕涙の碑といふ名なども、実はこの人がつけたものらしい。羊怙とは少し考へ方が違ってゐたが、この人も、やはりひどく身後の名聾を気にしてゐた。そこで自分の一生の業績を石碑に刻んで、二基同じものを作らせて、一つを同じ●(山+見)山の上に立て、今一つをば漢江の深い淵に沈めさせた。萬世の後に、如何なる天災地異が起って、よしんば山上の一碑が蒼海の底に陰れるやうになつても、その時には、たぶん谷底の方が現はれて来る。こんな期待をかけてゐたものと見える。(この項つづく)

                 『文芸春秋』第二十二巻第六号昭和十九年六月


『会津八一ン州』 中央公論社


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