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じゃがいもころんだⅡ №10 [文芸美術の森]

友だちというもの

              エッセイスト  中村一枝

 昨日、病院に入院している友人から電話があった。下の子が、幼稚園からの長い付き合いである。友人と言っても付き合いの中にはさまざまのあり方があって、ひとくくりにはしにくい。彼女とは下の息子が幼稚園にはいつたときからだから、かれこれ50年にはなるだろうか。初めのうちは単にお知り合いと言う程度だったが、近所と言うのも手伝って親しみやすさはあった。彼女はPTAでは目立った存在で、その点ではあまり近づきたくない存在の一人だった。PTAについては、上の娘のときからわたしははっきりしていて、あの組織にはかかわりたくないというのが本音だった。ただ息子が6年生のときにはなんのはずみか卒業対策委員をやった。それはそれでひとつの思い出つくりにはなつたが、いまもPTAには批判的なのは変わらない。彼女を仮にSさんとしておく。Sさんとは子供が中学校になると別々になったので、その後のPTAでのは接触はない。ただ家が近いのと、他愛ないおしゃべりには格好のいい相手だった。
 それが10年くらい前に彼女がガンになった。偶然 それ以前にわたしの弟の肝臓が悪くてかかっていた病院の先生がその癌の専門医という事情があって、弟は意見が合わずその病院をやめてしまっていたが、先生の識見は高く評価していることを伝えた。結局彼女は弟がやめた先生の元で治療を受けることになったのである。治療が功を奏して退院できた時期もあった。通常と変わらない日常を送れたときもあった。だが、癌というのは実にしぶといやつで、10年の間にも着々としぶとく手をのばしていた。病人もお医者さんも年取って行ったのに、癌は年もととらずにからだのなかで力をたくわえていたのだ。また入院することになったという電話であった。
 わたしは決して親切な人間ではない。まして病人を支えるなんてできるタイプではない。ただ多少まめなところはある。とにかくここにきて好きだ嫌いだという問題ではない。とにかく今生きたいと望んでいる人をなんとか引っ張り上げるしか手はないのである。そして聞いてあげるしかない。世の中には奇蹟というものもある。本人の強い望みは何を起こすか、其処が人間の持つ強い力だと思う。わたしは今心から奇蹟を信じたいし、以後はただ彼女が信じ続けているものに力を与えてあげたいと思っている。
 彼女の病気に向かう姿を通して、彼女の生き方について自分と違うからというのは思い上がりなのだとわかってきた。とにかく頑張っている友だちになんとか力を与えてあげたい。病気は人間を強くし、頑張らせ、優れた文学も病気から生まれる。それでも病気にはなりたくないのはこれまた人間の本音。病気の友人にかける言葉がないのも現実だ。
  人生長かろうが短かろうが長さではない。その内容でしか勝負はない。彼女の生き方が自分とちが違おうと生きる事に差はない。私は自分の我の勁さで人を推し量ることはやめようといつも思っているのについ、地が出てしまう。人間としてマジメに生きている人を批判することこそそまさに傲慢なのだとつくづく思う。今はただ、友人の回復を心から願っている。
 

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