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雑記帳2019-6-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-6-1

◆鎌倉街道上道、今回は鷹の台から、恋ヶ窪、国分寺へ。

鷹の台は江戸時代、尾張徳川家の鷹狩り場だったことに由来する地名。駅の南に玉川上水が流れています。ここから九衛門橋までは実は50年前の私のホームグラウンド。今は中央公園になっている場所はそのころ、東京都の蚕糸試験場があって、周囲はうっそうとした桑畑でした。
上水はその後、昭和40年に淀橋浄水場の廃止とともにいったん空堀になりましたが、昭和61年、昭島市の多摩川蒸上流水再生センターで再生された処理水を流すことで清流が復活しました。この辺りは掘削当時の石組みが残されており、緑豊かな散策路は50年前と変わりません。

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玉川上水は今から360年前、多摩川の水を江戸市中に供給するために掘られた水道用水路です。羽村から四谷大木戸までおよそ50キロ。高低差わずか90cmの工事は難航したと伝えられていますが、当時の技術の高さがしのばれます。
鎌倉橋は鷹の台駅からおよそ1.3キロのところにある。玉川上水にかかる橋です。
この付近を鎌倉街道が南北に横切っていたといわれていることから鎌倉橋を名づけられました。橋の北側の道が、旧鎌倉街道です。橋の北側は宅地開発のため、旧道の道筋は失われています。

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鎌倉橋から玉川上水を見下ろす
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鎌倉橋からJR武蔵野線新小平駅のほうにつながる街道を見る

国分寺市西恋ヶ窪の旧鎌倉街道に西面して建つ古社が熊野神社です。
熊野は古代より神秘的な聖地とされ,奈良時代よりこの地で修行をする者が多かったのですが,寛治4 (1090) 年,白河上皇の熊野御幸があってから政治権力を背景とする宗教的権威が生じ,熊野信仰は飛躍的に隆盛したといわれています。
恋ヶ窪の熊野神社は新田義貞の兵火により消失したと伝わっていますから、この熊野信仰隆盛期に建てられたものの一つでしょう。その後も兵火や自然災害などで再建をくりかえし、現在の社殿は昭和41年に改築されたものとされています。境内に京都聖護院門跡の道興準后の歌碑がありました。
 朽ち果てぬ 奈のみ遺れる 恋ヶ窪 今はた訪ふも 知記りならずや

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歌が詠まれたのは1486年のことですが、このころすでに恋ヶ窪という地名があったことを示しています。
そして、熊野神社に近接する東福寺に、その由来を記した「傾城墓」「傾城墓由来」の石碑がたっています。
鎌倉街道の要所だったこの辺りは中世には遊女屋も多かったのです。その中で、夙妻太夫(あさづまだゆう)という遊女が畠山重忠の寵愛をうけていました。しかし武将の重忠は合戦のため京に赴き、残された夙妻太夫は重忠の帰りを待ちこがれるものの、横恋慕した男に重忠は戦死と告げられて、深く悲しんだ太夫は近くの姿見の池に身を投げたのでした。その死を哀れんだ人々が阿弥陀坂の上に太夫の墓をつくり、松をうえたところ、不思議なことに松の葉は二葉にならず一葉だけになったとか。「一葉松」の由来とともに、恋に殉じた太夫にちなんで、この当たりの地名が「恋ヶ窪」になったことが、碑に紹介されています。
なお、東福寺は江戸時代、熊野神社の別当寺でした。

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東福寺にある傾城墓(右)と傾城墓由来の石碑

その姿見の池はかっては湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水をたたえていた池で、東京都の緑地保全地域にしていされています。「姿見の池の遊歩道」を行けば、湿地や水辺の林をそなえた里山の風景を見ることができます。
鎌倉上道の宿場であった恋ヶ窪の遊女達が、自らの姿を映して見ていたことから、「姿見に池」と呼ばれるようになったということです。

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姿見の池

それとおぼしき街道も、開発によって個人の宅地になっていたり、西武線やバイパスによって断ち切られたり、昔のままに残っている部分は僅かです。
それでもこれぞ鎌倉街道!と呼びたい道に出会いました。
JR西国分寺駅から南下して15分ほどのところにある、国分寺崖線をつらぬく切通しの道がそれです。ここから国分尼寺にいたるまでの区間は史跡として保存されている地域です。

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JR武蔵野線に沿うように行く鎌倉街道の切通

道の西側は「伝祥応寺跡」と称される土塁状の土壇跡、東側は塚跡(盛土遺稿)です。
伝祥応寺跡は、国分尼寺跡のすぐ北側に隣接していることから、長らく国分尼寺の伽藍の一部とされていましたが、近年の調査によってそれよりも700年ほど後、鎌倉末期に建てられたものと判明しました。
切り通しの西側の、高さ12mの土壇を登ると、東西30m、南北45mの広場、そこに堂がたっていたことが推定されます。
街道をはさんで東側には、伝祥応寺の施設の一部と思われる塚跡があります。頂上からは東の方に武蔵国分寺が望める好立地、ここで、秘教とされる密教の祈祷がおこなわれていたのでしょう。

奈良時代の中頃、天平13年(741)聖武天皇の「国分寺建立の詔」によって、諸国に僧寺(そうじ)と尼寺(にじ)の建立が命じられました。当時、続発していた疫病や基金、災害から国家を守り、人々の安寧を祈祷するのが目的でした。
武蔵国分寺は、国府の北の広大な平地と、豊かな湧水に恵まれたこの地に建てられました。僧寺と尼寺を合わせた寺地は、推定で東西8町(約900メートル)、南北5町(550メートル)。僧寺だけを見ても東西3町あまり、南北4町に及びます。武蔵国分寺は全国でも最大級の国分寺でした。

武蔵国分寺跡の西、府中街道とJR武蔵野線の線路を越えたところに国分尼寺跡があります。

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史跡の中で一段と高く盛り土をしているところが金堂跡です。本尊を祀る御堂は、尼寺伽藍の中心にある最も大きな瓦葺建物でした。
上に登ると、推定される建物規模が土質舗装範囲で表示されています。横には、建物の基壇や辻の構造がわかるような見学施設がもうけられています。
建物への水の浸入を防ぐため、水はけを良くするために平地の上に石を組み、高くした部分を「基壇(きだん)」とよびますが、古代建築に基壇はなく、木枠(版)の中に土を盛り1層づつ杵などでつき固める版築と呼ばれる築造法をもちいていました。当時、寺院や宮殿建築において欠かせない工法でした。国分尼寺では1.5mの基壇にあたる部分に4.5m分の土を使っています。

ひときわ目立つ、金堂前面に復元された4本の柱は、儀式などの際に幟を掲げるための柱でした。その名は、幢竿(どうかん)。柱の高さは、金堂の軒先の高さを超えていたと考えられています。金堂前面が重要な儀式の場となり、様々な法会が開かれていたことを示す、全国的にも珍しい例だということです。

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金堂跡と幢竿(向かって左にもう1本ある)

礎石の配置された箇所は尼僧の住まいの跡です。正規の尼僧の他に、修行中の尼僧や召使などが従事して、共同生活を行なっていました。往時と同じ多摩川産の石が柱跡におかれています。房内は扉、壁などで仕切られて複数の窓があり、昼間の居住、勉学の間や寝室などの場になりました。

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尼僧の住まい跡を示す礎石

歩いた5月21日は日本列島に嵐が吹き荒れた日でした。リュックに雨靴、雨合羽と傘の完全武装で臨みましたが、ズボンはびしょぬれ。立ち止まってゆっくり説明を聞くヒマもあらばこそ、国分尼寺の写真は後日撮影したものです。

都立薬用植物園のケシ畑は、花の咲く5月の一時期だけ、一般に開放されます。
通常は防犯カメラの警戒も厳重な、入ることのできない柵の中では、見事なケシの花が咲いていました。アヘンの原料となるケシの栽培は、アヘン法によって厳しく規制され、日本では唯一、ここと、高知県の牧野植物園にだけ、許されています。観賞用のポピーの2倍くらいはありそうな大きな花びらです。

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◆5月末、記録的な暑さのなか、国営昭和記念公園の花の丘では、シャーレーポピーが見頃をむかえました。

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日本庭園の歓楓亭の今月のお菓子は「青楓(あおかえで)」です。
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