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医史跡を巡る旅 №57 [雑木林の四季]

「博愛精神のルーツをたどる・日本赤十字社の飛躍」

                  保健衛生監視員  小川 優

前回は、博愛社本社の場所的流浪について調べてみました。今回は組織的な紆余曲折を追います。
と、その前に佐野常民と並ぶ日本赤十字の生みの親、大給恒について触れておきましょう。大給恒のお墓は渋谷区広尾の香林院祥雲寺墓地にあります。

「大給恒墓」
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「大給恒」 ~東京都渋谷区広尾 香林院祥雲寺墓地

天保10年(1839)、三河奥殿藩大給松平家の長男として生まれる。旧名は松平乗謨。嘉永5年(1852)に家督を継ぎ、第十代奥殿藩藩主となる(のち陣屋を信濃に移し、田野口藩となる)。また譜代大名として幕末の幕府混乱期に大番頭、若年寄、老中を、兼ねて陸軍奉行、陸軍総裁を務める。戊辰戦争の勃発とともに幕府と決別、老中職、陸軍総裁職を辞して領地居城のある田野口(現在の長野県佐久市)へ引き籠り、松平姓を捨て、大給を名乗る。
明治4年(1871)大給恒と改名、西洋事情に通じていたので、新政府の元で明治6年、メダイユ取調御用掛に任じられ、日本における叙勲制度の新設に関わる。明治8年元老院議官、明治9年賞勲事務局副長官、明治11年議官兼賞勲局副総裁となる。明治17年(1884)には子爵に叙され、明治23年貴族院議員、明治40年には伯爵に叙される。
明治43年、死去。

「大給恒墓の看板」
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「大給恒墓の看板」 ~東京都渋谷区広尾 香林院

大給恒の菩提寺は三河奥殿藩代々縁のある香林院となりますが、墓所はお隣の祥雲寺の墓地にあります。ですから墓所の案内板は香林院の門前にあり、お墓は祥雲寺墓所右手の高台に位置しています。

博愛社活動の許可を得るために、西南戦争まだ終わらぬ九州で飛び回ったのが佐野常民とすれば、東京に留まり皇族や家族の説得に奔走したのが大給恒であったようです。

「赤十字特別社員章」
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「赤十字特別社員章」

日本赤十字における大給恒の大きな功績は、社員章や有功章の制定であると思います。そもそも大給恒は、日本の勲章制度の創設に深く関わった人物です。勲章はそれぞれの国の歴史、文化、伝統を色濃く反映しています。大給恒は西欧諸国の状況を調査したうえで、日本に合わせた勲章制度を組み立てました。その制度は敗戦後憲法が変わっても基本は変わらず、現在もなお生きています。
日本赤十字社にも独自の顕彰制度があります。一定額以上の赤十字社事業運営資金としての寄付を行った者を社員として、社員章または有功章を交付する制度です。明治20年に制定され、特別社員には勲章式の社員章が授与されました。見返りを求めず、赤十字活動を金銭的に支える行為を称える制度として、これらの徽章を活用した発想は、大給恒によるところが大きかったのでないでしょうか。
現在では勲章式の社員章は廃止されましたが、高額寄付者に対する有功章は残っており、赤十字関係の記念式典等に臨席される女性皇族の胸にも輝いています。

こうした工夫や努力の甲斐あって、博愛社から日本赤十字社に名を変えた明治20年以降、飛躍的に社員数は増えていきます。博愛社発足から日本赤十字社に代わる前後までの社員数の推移は以下の通りです。
明治10年 入社員38人
明治11年 社員総数46人
明治12年 同63人
明治13年 同161人
明治14年 同172人
明治15年 同226人
明治16年 同241人
明治17年 同248人
明治18年 同268人
明治19年 同609人
明治20年 同1,574人
明治21年 同10,045人
明治22年 同20,238人
明治23年 同23,569人
明治24年 同28,169人
明治18年までは微増であったものが、設立後10年を迎える19年・20年には倍増、次の21年には一桁跳ね上がります。仮事務所を転々とし、組織としての形もなかなか整わなかったなかで、諸外国の状況調査、皇族や名士への浸透工作、軍部との協力体制の確立など、地道な活動が徐々に実っていき、一気に花開いたと言えるかもしれません。

戦時の敵味方区別のない医療活動は、当初陸軍、海軍とも独自の軍医団の組織化に精一杯で、理解を得られませんでした。直前まで熾烈な殺し合いをしていた敵を助けることなど、感情的に受け入れられなかったということもあります。
一方で赤十字活動が本来非宗教的なものであるにもかかわらず、マークが十字であることや、西欧では職業看護婦が出現するまでは、医療救護活動の多くを修道女らが占めていたことから誤解されて、キリスト教禁教時代の名残から、受け入れがたい風潮があったことも事実でしょう。
明治16年内務省御用掛であった柴田承桂が、ベルリンで開催された衛生及び救難法の博覧会調査のためにドイツに派遣されます。博愛社では彼に、赤十字活動についてと、ジュネーブ条約加盟手続きについて調査を委嘱します。帰国した柴田は、翌年社員総会にて欧州赤十字社概況を報告します。

「柴田承桂墓」
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「薬学博士柴田承桂墓」 東京都新宿区原町 幸國寺墓域

嘉永3年(1850)、尾張藩医の次男として、名古屋に生まれる。尾張藩校で学んだあと明治2年東京大学東校に入学、明治4年ドイツに留学、ベルリン大学で有機化学、薬学を学ぶ。明治7年(1874)帰国、東京医学校の製薬学科教授、衛生局司薬監督、東京と大阪の司薬場長を務める。病弱のため退官するが、日本薬局方の編纂に関わる。明治43年(1903)、胃がんのため死去。享年61歳。医療制度の創設期に医薬分業の考え方を唱え、ドイツ語のapothekerを「薬剤師」と訳したのも柴田といわれる。 

「欧州赤十字社概況」
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「欧州赤十字社概況」 日本赤十字社本社情報プラザ展示物 

また翌17年には、ジュネーブで開催される第3回赤十字国際会議に、オブザーバーとして陸軍軍医監橋本綱常が代理出席します。橋本綱常については、日本赤十字社中央病院とともに次回詳しくお話しします。

彼らにより、ヨーロッパ諸国における軍隊と赤十字の関係、救護活動における女性の参加促進、救護員養成の施設の必要性が報告され、政府や軍部にも赤十字活動についての理解が進みます。そして皇族の献身的協力もあって、国民にも赤十字活動が浸透していきます。明治19年(1886)には本社に併設する形で病院が開院、平時の医療提供体制と、要員の養成体制が整います。

「赤十字加盟通知」
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「赤十字加盟通知」 日本赤十字社本社情報プラザ展示物

そして、いよいよ明治19年(1886)6月、日本政府はジュネーブ条約に加盟。翌20年(1887)、晴れて博愛社は日本赤十字社と名を変えます。


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