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立川陸軍飛行場と日本・アジア №179 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

立川の民間飛行学校から最後の少年二等飛行士誕生

            近現代史研究家  楢崎茂彌

 立川の民間飛行学校の最後を飾る学生の昇格飛行が9月26日に立川陸軍飛行場で行なわれました。受検者は、179-1.jpg9月に17歳になったばかりの村尾誓圓君(17)(連載NO.172で紹介しました)、大岸眞左勝君(17)の二人の少年と、一等飛行士をめざす片山良治郎君など計8名です。場内試験は前日に終わっているので、この日の飛行テストは、一等飛行士は立川-上田(長野県)-大田原(栃木県)-立川のコース、二等飛行士は立川-大田原間往復のコースで行なわれました。
 トップバッターは村尾君で午前7時35分にスタート、大岸君や片山君がこれに続きます。昇格飛行は午後まで続き、村尾君、大岸君など6名が無事合格、2名が機体や発動機の故障により再試験となりました。
 二等飛行士に無事合格した村尾少年は嬉しそうに次のように語っています。“一寸心配だったがよく地図を見ていると次から次へ頭に浮かべていた町が現れ、他機の先頭を切って、直接大田原に向かいました。発動機も好調、お天気もよかったため往航一時間三十五分予定の如く飛び、こんなうれしいことはありません。お父さんは自分がよいと思う途に向かって邁進せよといってくれるので、一生空へ生命を捧げるつもりです。十一月少年航空兵に志願します”
  同じく二等飛行士に合格した大岸少年は次のように語りました。“岡山市の父親も承知の上で飛行機に乗ることを許してくれたのですが、僕は長男なので時に自重して一心に勉強しました。今日の野外飛行も初めいろいろ心配しましたが、お陰で無事に飛べ、こんな嬉しい事はありません。少年航空兵になるつもりです。”(「読売新聞・三多摩読売」1933.9.27)
  苦労して学んだ2人は、少年航空兵を志願する道を選ぼうとしています。昭和5(1930)年に創設された海軍少年航空兵は15歳から受験できるので、二人とも2年前には受験出来たはずです。すると、村尾君も大岸君も、この年(昭和8年)に募集が始まった陸軍少年航空兵(連載NO.172)を受験するつもりのようです。ただ、この年の4月28日に告示された「陸軍諸学校生徒採用規則」によると、少年航空兵を育成する所沢陸軍飛行学校の出願期限は5月31日です。海軍少年航空兵の募集は毎年12月頃とされています。すると、海軍なのか‥。ここでは、この年に募集が始まった陸軍少年航空兵募集の様子を紹介します。
  「陸軍少年飛行兵史」(少飛会歴史編纂委員会編・少飛会1983年刊)は一期生について次のように書いています。
  “大学は出たけれど。という経済不況下、満州事変・上海事変も一応一段落を見たが、昭和八年三月には国際連盟を脱退し、日本は孤立化に進みつつあった。そして戦争という危機感も漂う頃であった。また一方では航空時代という言葉が、雑誌、新聞などに掲載され始めた初期の啓蒙時代でもあった。
  大空に夢を託す青少年が航空への道を目指したのも、自然の成り行きであった。旧制中学校の在校生、高等小学校の卒業生の少年達は期せずして志願した。当時の入校者数の約百倍もの志願者が殺到したのである。”
  約百倍は大げさにしても、大変な倍率だったことは間違いありません(実際は42.8倍でした)。旧制中学の生徒も受験するのに対して、希望者が全員入学した日本飛行学校卒業の村尾君は分が悪いですよね。「陸軍少年飛行兵史」には、卒業生名簿が載っていますが、残念ながら一期生の名簿には村尾君の名も大岸君の名もありません。念のために二期生、三期生名簿も確認したのですが、矢張り名前はありませんでした。海軍については確かめることは出来ていません。二人がお金をかけて飛行学校で学んだ操縦技術を少年航空兵としてもう一度学び直すのかと思うと、軍隊以外に二等飛行士の資格を生かす道が少なかったことを残念に思います。
 
 編成替え後、初の航空本部長検閲
 陸軍飛行第五連隊は近衛師団の所管にあるので、編成替えから約一月後の8月29日、朝香宮近衛師団長が演習を台覧(皇族などが見学すること)するため、立川陸軍飛行場を訪れました。
  9月5日には杉山航空本部長の検閲が行われます。午前7時50分、杉山元航空本部長が立川陸軍飛行場に到着、179-2.jpgまず田中連隊長が状況報告を行い、次に書類検閲があり、引き続いて中隊毎に教練を披露しました。連載NO.175で紹介したように、8月1日に第五連隊が編成替えとなり戦闘隊が配備されています。さらに軍備改編の一環として、飛行連隊は、連隊本部、2飛行中隊からなる飛行大隊、材料廠に配置する整備隊で編成されることになりました。
 この日は、第一大隊(偵察隊)の第一中隊・第二中隊の八八式偵察機と乙式偵察機合計20数機が対地攻撃・急降下爆撃・空地連絡の教練を披露、第二大隊(戦闘隊)の第三中隊・第四中隊は基本戦闘飛行編成、離着陸、対地攻撃訓練を披露して、午前の教練を終了しました。そのあと航空本部長は各工場を視察、通信などの検閲も行ないました。そして午後4時からは大戦闘教練が始まります。
「読売新聞・三多摩読売」(1933.9.6)は戦闘教練の様子を次のように伝えています“南北両軍は五日午後四時多摩川をはさんで対峙、両軍飛行機は各地上部隊に協力、地形敵状爆撃に進出の機会を狙っている。一機また一機と舞い上がると見れば、敵機を追って高度千米二千米乱撃電撃の勝負容易に決することなく夜に入る。両軍偵察機は折柄の月明かりを利用して、猛烈な機上戦を繰広げ午後九時一先ず演習休止、夜間演習終了、杉山中将は航空寮に宿泊、六日午前三時来隊、午前四時よりの払暁戦を検閲する。”
 翌朝四時に再開された演習は再び激戦となり、午前八時に教練は終了、杉山航空本部長は講評を行なうと、自動車に乗り込み帰京します。こうして20数機が入り乱れて行なわれた教練は事故もなく終わり、航空本部長は連隊長以下将兵全員に一日の慰労休暇を与えました。
 この訓練は、新たに配備された戦闘隊を満州に送るための訓練だったのでしょう。因みに杉山元航空本部長は、アジア太平洋戦争開戦時には参謀総長に上り詰めています。

 2機の戦闘機、夜間演習中に墜落
  9月18日午後4時、第五連隊所属の九一式戦闘機3機が立川浜松間の夜間航法飛行に飛び立ちました。無事浜松に着陸した3機は午後7時20分浜松を離陸し、立川をめざしました。ところが編隊長松村大尉の機はプロペラに変調をきたし浜松に引き返します。一方、8月1日に八日市場の第3連隊から転任してきた鶴中尉と同じく第3連隊から転任してきた谷口特務曹長が操縦する2機の九一式戦闘機機は行方不明になり、午前1時には両機とも墜落し二人とも死亡していたことが確認されました。この報を受けて第五連隊の野田副官は“九一式戦闘機に依るこの惨事、何とも言えないが、179-3.jpg夜間のことであり万事窮した結果だ。この尊い犠牲を生きた手本として、我々は一層空軍のために力を致さなければならぬと思う”(「読売新聞・三多摩読売」1933.9.20)と語ります。死者をいたむ言葉が無いのが気になりますね。同じ紙面は、谷口特務曹長と同郷の西軍曹の次のような言葉も載せています。“私と郷里も一つだし兄とも思っていましたのにこんなことになろうとは、浜松から帰りを飛行場で待っている時でした、八時頃中隊の格納庫にヅシンという音響があったのでオヤと思いましたが、変わったこともなく、そうしているうちに悲報が入ったので、私は後で考えると鶴中尉殿や谷口曹長殿の魂が飛んで来たのでその音だったような気がします”。救われる気持ちになるコメントです。
  22日に第4格納庫で行なわれた連隊葬の参列者は2000人を越えました。四宮基信という少年が連隊葬儀委員長宛に現金1円と次のような手紙を送ってきました。
  “フタリノオジサンガヤマヘヲチテシナレタトキキマシタ、ドウゾオセンコウヲアゲテクダサイ  レンタイノオジサン”
  戦闘隊が加わることで第5連隊の役割は大きく変わっていきます。連載NO.174で紹介したように満州事変が始まると直ぐに満州に派遣された第5連隊の部隊は、これといった損傷も無く無事帰還しています。しかし、改編で戦闘隊が加わったので、今後は無事帰還とはならないでしょう。
   
  写真1番目 上は村尾君、下は大岸君  東京日日新聞・府下版(1933.9.27)
  写真2番目 勢揃いした新鋭機     読売新聞・三多摩読売(1933.9.6)
  写真3番目  両勇士の連隊葬     読売新聞・三多摩読売(1933.9.23)
 


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