西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №10 [文芸美術の森]
≪シリーズ≪琳派の魅力≫
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
第10回:俵屋宗達「源氏物語関屋(せきや)澪標図(みおつくしず)屏風」
(寛永8年/1631年頃。六曲一双。国宝。各152×356cm。静嘉堂文庫)
(寛永8年/1631年頃。六曲一双。国宝。各152×356cm。静嘉堂文庫)
俵屋宗達や本阿弥光悦といった京の上層町衆は、平安王朝文化に憧れ、物語や和歌などの王朝文学に対する素養を共通のものとして持っていました。王朝趣味は、その後の琳派の系譜の中にも継承され、物語で言えば「源氏物語」や「伊勢物語」、和歌では「古今和歌集」や「新古今和歌集」などを題材とする絵画や装飾がたくさん制作されました。
今回は、俵屋宗達が「源氏物語」から主題を採った屏風絵「源氏物語関屋澪標図屏風」を紹介します。
この屏風絵では、右隻に「源氏物語」の中の「関屋(せきや)」のエピソードを描き、左隻には「澪標(みおつくし)」の場面を描いています。
この屏風絵では、右隻に「源氏物語」の中の「関屋(せきや)」のエピソードを描き、左隻には「澪標(みおつくし)」の場面を描いています。
≪「関屋図」~主役を見せない心理劇~≫
先ず右隻の「関屋図」から見ましょう。
光源氏は、石山寺に行く途上の「逢坂の関」で、かつて契りを交わした女性・空蝉(うつせみ)と出会います。(「関屋」とは関の番人の詰所のことです。)
空蝉は、契りを交わした後、源氏と自分との身分の違いを思い、自ら身を引いてしまった女性です。
空蝉は、契りを交わした後、源氏と自分との身分の違いを思い、自ら身を引いてしまった女性です。
この絵(上図)では、右側が源氏の乗った牛車ですが、源氏は姿を見せていません。一方、左上の牛車には空蝉が乗っているのですが、こちらも姿を見せないまま。彼女の乗った牛車は源氏の一行に道を譲ろうとしています。
お互いに、かつて愛し合った相手はそこにいると気づきながらも、顔をみせないのです。それぞれの従者たちもそのことを知り、緊張して見守っています。動きは、能の舞台のように抑制されていますが、もどかしさと緊張感が醸し出されています。
宗達は、主役二人の姿を描かずに、関所の入口をはさんで向かい合う周囲の人物たちを描くことで、見えない源氏と空蝉の心理を暗示し、切ない情感を表現しようとしています。
主役を描かずに、その存在と心理を暗示するというのは「暗示の美学」ともいうべきものであり、これは日本美術独特の「留守文様」につながる美意識です。
宗達は、このような王朝物語を、緑、白、金という効果的な色彩を配することによって、優美で雅びな画面に仕上げています。
一方、山の造形はきわめて大胆であり、抽象的とさえ言える装飾性を持っています。ここでも宗達は、大和絵の伝統を汲みながら、まったく斬新な絵画世界に仕立ててしまいました。
主役を描かずに、その存在と心理を暗示するというのは「暗示の美学」ともいうべきものであり、これは日本美術独特の「留守文様」につながる美意識です。
宗達は、このような王朝物語を、緑、白、金という効果的な色彩を配することによって、優美で雅びな画面に仕上げています。
一方、山の造形はきわめて大胆であり、抽象的とさえ言える装飾性を持っています。ここでも宗達は、大和絵の伝統を汲みながら、まったく斬新な絵画世界に仕立ててしまいました。
≪「澪標図」~ここにも暗示の美学が~≫
次に、左隻の「澪標図」(みおつくしず)を見ましょう。
ここには、住吉神社(兵庫県)に参拝する旅に出た源氏の一行と、これまた、住吉詣に船でやってきた明石の君が出くわす場面が描かれています。
ここには、住吉神社(兵庫県)に参拝する旅に出た源氏の一行と、これまた、住吉詣に船でやってきた明石の君が出くわす場面が描かれています。
かつて源氏は、失脚して須磨・明石に隠れ住んだことがありました。その時、明石の君と出会い、契りを結びます。明石の君は子どもを身ごもりました。
その後、都に戻った源氏は、栄達の道を歩み、内大臣になりました。このことを感謝して源氏は住吉神社に詣でたのですが、偶然にも明石の君も船で住吉詣にやってきたのです。しかし明石の君は、船上からきらびやかな源氏の一行を見て圧倒され、いまさらながら身分の違いを思い知らされます。
この絵では、海上に浮かぶ一艘の船のみで明石の君を暗示し、その姿は描かれていません。
一方、源氏もまた牛車の中。こちらも姿は描かれない。(牛車の前で、衣冠束帯姿で立つ人物は、都から来たやんごとなき貴人・光源氏を出迎える摂津国の国守。)
しかし、牛車を取り巻く従者たちの様子には、ただならない気配が感じられます。海上を見つめる者、驚いている者、ひそひそと話を交わす者たち・・・なにやらざわめいた雰囲気です。(下図参照)
この「澪標図」でも、宗達は、主役の二人を描かずに、緊迫感を表現しています。
このあと、明石の君は、船でそのまま引き返していくのですが、波間にただよう一隻の船を描くだけで、明石の君の揺れ動く心のうちが切なく伝わってくる画面です。
一方、源氏もまた牛車の中。こちらも姿は描かれない。(牛車の前で、衣冠束帯姿で立つ人物は、都から来たやんごとなき貴人・光源氏を出迎える摂津国の国守。)
しかし、牛車を取り巻く従者たちの様子には、ただならない気配が感じられます。海上を見つめる者、驚いている者、ひそひそと話を交わす者たち・・・なにやらざわめいた雰囲気です。(下図参照)
この「澪標図」でも、宗達は、主役の二人を描かずに、緊迫感を表現しています。
このあと、明石の君は、船でそのまま引き返していくのですが、波間にただよう一隻の船を描くだけで、明石の君の揺れ動く心のうちが切なく伝わってくる画面です。
そしてここでもまた、大胆な装飾文様のように描いた太鼓橋や松林、砂浜、波などが柔らかい曲線を奏で、画面に雅びな趣きを与えています。
このようにして「関屋図」と「澪標図」を眺めると、そこには、宗達の絵師としての細心の構成意志が読み取れます。まことに俵屋宗達は、平安時代以来の「大和絵」の伝統を“絵画的に”大きく革新した絵師でした。
次回は、俵屋宗達が絵師としての構成意志をくっきりと示しているもうひとつの屏風「舞楽図屏風」を取り上げます。
2019-05-12 21:57
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