正岡常規と夏目金之助 №13 [文芸美術の森]
子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承
子規・漱石 研究家 栗田博行 (八荒)
第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅲ
(番外) 清少納言と正岡子規(都合により№13再掲です。)
随筆「吾幼時の美感」をめぐってお話するのを、今回で終わりにして、次回から夏目金之助くんの幼年期に向かおうと思っていたのですが、今回は番外として「清少納言と正岡子規」という話題に脱線させてください。実は、お隣の欄「西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」の斎藤陽一さんから
子規が『吾幼時の美感』で、ひとつひとつを愛おしむように綴っている美しきものたち、心ひかれたものたちが、平安朝に登場した女性文学者たちの繊細な“たおやめぶり”の美意識に共通するものを感じ・・・
たとえば、清少納言の『枕草子』では、女性的な“美感”を発揮して、「いとおかしき(心惹かれる)もの」たちを、幼女が雛人形や色とりどりの千代紙、野で摘んだ草花などを並べて、飽きず愛玩するかのように、綴っていますよね。
という感想をいただいて、「アッ!」と気づかされたことがあったからです。子規のあの横顔写真と清少納言の像を並べるなどという発想は私自身には全く無かったのですが、斎藤さんのこのひと言から、こんなこともしたくなってしまったのです。今回はその気持ちを当欄読者にも共有していただきたく…。お付き合いください。(笑)
子規最後の写真となったこの有名な横顔写真は、明治33年(1900)12月24日に撮られたものです。この姿勢にするのが大変だったことが伝わっています。子規は、寝たきりに近い病床へのお見舞いに松山の名勝の写真を贈ってきてくれた柳原極堂にお返しとして、一筆添えてこの写真を送ったのでした。
写真有難ウ 故郷ノ光景ツクヅク見テ居ルトコマカナ処ニ面白ミガ何ボデモ
アル
この「木像上人ノ写真」を松山で受け取った時の印象を、極堂はのちにこう記しています。
骨と皮になって憔悴し・・・しかし眼光は炯々四辺を射て、眉間には芋虫大の青筋を立てておる、五分がり頭の大の男が、帯から上を半身写したるものが転がり出た。
・・・これが子規君の写真であったと気づいた時は、覚えず写真を蔽うて畳の上に打伏し、しばらく顔をあげ得なんだ
あのような明治日本男子の気分(№8・9)で交遊してきた極堂としては、数年会えないうちに激変してしまった友人の相貌に、ショックで号泣してしまった・・・、でもそうとは書けなかったのでしょうか。「木像上人ノ写真一枚アゲル」という子規独特のユーモアにもこのときは反応 できなかったようです。そして、
・・・試みにその写真を幼児に見せしめしに 『ヲッチ』(コワイ!)と称して 恐怖するところあるは、それがいかに凄い形容であるかを想像せらるるであろう。
と続けています。身近な幼な児に見せてみたら、『ヲッチ』(コワイ!)という反応だったというのです。わが子だったのかもしれません。子規が「吾幼時の美感」の冒頭で述べた、幼な児は赤く華やかのものに「アップアップ」(キレイキレイ!)と喜ぶ、というのとは全く対極の反応だったわけです。
また同郷の3歳後輩で、日清戦争に看護兵として従軍し、子規に日清戦争従軍決意の気分を醸したもとになったひとりである五百木瓢亭という後輩も(・・・瓢亭自身は強く子規の従軍には反対したのでしたが)、この横顔写真について大きな違和感をもったようなのです。ずっと後年になりますが、こんなことを述べています。
今度世に公けにされた『子規随筆』の巻頭に出している彼の肖像を見ると、宛然たるこれ一個の羅漢で、一見鬼気の坐ろに(そぞろに)人に迫るがごとき相貌をしているが、もしあの肖像を標準に、彼の平生の風采を想像したならば、それは必ず誤想に陥るのである。
彼もまた柳原極堂と同じように「違う!正岡子規はコンナ顔ジャなかった!!」と叫んでいるのです。そして次のように言うのです。
思うに彼の羅漢的肖像は、その病躯骨立したところへ、光線射映の具合で、
爾かく(そのように)描き出されたものと見える。
さらに、本当の子規=正岡常規の風貌は
彼の顔貌はむしろ温和なゆったりとした、そうして幾分か陰気らしい方で、その特徴というべき点は、顔の上半部に現れていた。
即ち彼の大きいあまり濃くない眉と、横長な少し目尻が垂れているかと思うような小(ちいさ)からぬ一皮目(ひとえ瞼)とが、ともに左右に広く隔たっていて、その格外な眉間の間隔が、彼の広き額をさらに広く見せるかの趣きがあった。
(五百木瓢亭 嗚呼子規)
というのです。これは、何を物語っているのでしょう。
ここで次の3葉の子規肖像を見くらべていただきます。
左端が極堂も瓢亭も異相と感じたという子規あの横顔写真。
中は、明治25年10月10月14日、帝国大学退学を決意して、陸羯南に転身を相談した後、箱根を旅した時に撮影したものです。瓢亭が、「むしろ温和なゆったりとした、そうして幾分か陰気らしい方で、・・・」と述べた風貌が感じられる一葉です。「陰気らしい」と言っているのは「沈鬱なインテリの表情を湛えた・・・」くらいに読み替えてみると、ナルホドこれが二人が言いたかった、やつれる前の子規のふだんの風貌だったのか、と思えてきます。
そして右端ですが、明治の洋画界の先覚者浅井忠が描いたものです。筆者(八荒)の想像ですが、極堂や瓢亭の横顔写真への違和感や、渡仏前交遊のあった自身の心象も重ねて、横顔写真を下地の構図に意識しながらも、病で帯びた子規の異相を取り去ったデッサンだったのだろうと思います。すると次のようなイメージの遊びをしたくなりました(笑)。
いかがでしょう。
こう並べててみると、斎藤陽一さんが愚生の『吾幼時の美感』論から想起された「平安朝に登場した女性文学者たちの繊細な“たおやめぶり”の美意識」が、明治日本男子・正岡子規の「美感」の深いところにも働いていたのではないか・・・と思えてきませんか? 「子規が平安時代に生きていたら、清少納言と仲良くやったんではないだろうか」とさえ、思えてきたりするのです(笑)。そこでもう一つイメージ遊びにお付き合いください。下は、上の画像を一点だけ変えたものです。
実は左端は、紫式部なのです。平安美女絵図から採ったものですが、清少納言であれ紫式部であれ、あの極堂や瓢亭がショックを受けた横顔写真ではなく、浅井忠が描いた子規像ならよく調和するイラストになると思いませんか・・・?
ここから次の問題が立ち上がってきます。
子規は「吾幼時の美感」を執筆(明治31年末)した年の2月頃から、明治の文学界に向かって次のような叫び声を上げていたのでした。
近来和歌は一向に振ひ不申(もうさず)候。・・・万葉以来実朝(さねとも)以来一向に振ひ不申候。 歌よみに与ふる書 (明治三十一年二月十二日)
奈良時代の万葉、飛んで鎌倉時代の実朝をこう持ち上げた上で
貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。・・
三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしく相成候。
再び歌よみに与ふる書 (明治三十一年二月十四日)
と、和歌に限ってはいるものの平安朝のたおやめぶりの美意識を(八注・古今集以降の勅撰和歌集以降の支配的な歌風を・・・)、手酷くコキ下ろしているのです。
さらにはこうも発言します。新聞「日本」に寄せられた非難の声に対して
「日本文学の城壁ともいふべき国歌」云々とは何事ぞ(八注・ヨクイウヨ!)
代々の勅撰集の如き者が日本文学の城壁ならば、実に頼み少き城壁にて、かくの如き薄ツぺらな城壁は、大砲一発にて滅茶滅茶に砕け可申候。
生は(自分は)国歌を破壊し尽すの考にては無之、日本文学の城壁を今少し 堅固に致したく、外国の髯づらどもが大砲を発(はな)たうが地雷火を仕掛けうが、びくとも致さぬほどの城壁に致したき心願有之、・・・
六たび歌よみに与ふる書(明治三十一年二月二十四
この「ますらおぶりの極致」のような激しい叫びを、明治・大正・戦前の昭和・戦後の昭和・平成と歩み、今「令和」に至った日本の近現代の精神史において、どう考えたらいいのだろうか・・・という大問題です。
西洋美術研究者の斎藤陽一さんからいただいた感想から、こんなところへ考えが展開してしまいました。とても短時間には手に負えない大きな問題ですが、問題をできるだけ単純化するために子規の心情の流れだけに限って、次回も考えてみようと思います。
第一回で触れた子規の日清戦争従軍の動機から端を発する問題と考えています。
次回は5月16日(予定)としてきましたが、都合により6月1日と変更します。ご了承ください。内容は予定どう、
正岡常規と夏目金之助 №14
子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承
(番外) 子規における「ますらおぶりとたおやめぶり」
といった内容になるかと思っています。お付き合いください。
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