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バルタンの呟き №57 [雑木林の四季]

          「断捨離というけれど・・・」

                           映画監督  飯島敏弘

令和さわぎの10連休という未曾有の大休暇のあと、トランプアメリカ発祥の大不況かという不連続線を伴った梅雨が、まもなくやってきます。
近づく選挙絡みで、明るい方へ、明るい方へと、話題を向けようという算段丸見えの政府と、いまや忖度機関と化してしまったマスコミが、挙げて、2020TOKYOオリンピック・パラリンピックに国民の関心を向けさせようと、チケットの予約開始でブームづくりを目論んだり、果ては、有望選手の発病までも絶好の素材とばかり、執拗にフォローして話題作りに励んだり、一方令和天皇即位で、柳の下を狙って、皇室行事に事寄せて、上皇皇太后と新天皇皇后陛下ばかりか皇統親族の動静を、かつてなく執拗に報道する上に、アメリカ大統領トランプ氏を国賓第一号に招くなど、ちょうど、「大東亜共栄圏、新秩序」をとなえて国民を大政翼賛一辺倒に纏めようとした昭和の「紀元2600年奉祝」のお祭り騒ぎに似た状況になって参りました。
各地に盛り上がる世情を、ひが目で、いえ、裸の目で見ると、まさに、国民を令する(一辺倒におしなべる)元号どおりの読みになっているように思えます。

広告欄に眼を移せば、雑誌、週刊誌、ムック本などの広告宣伝の記事が、近づく死に臨むための断捨離と、死への段取り(病院死か自宅死か)、死の後処理(葬式、埋葬)、死後の手続き(保険、預金、年金)と、死後の相続手続き、相続の節税・・・まあ、これからの私たちと、私たちの親族の歩む道は「これしかありません!」と言われているようで、ただでさえ、物事がおっくうになったり、塞ぎ込んだりしがちなわれわれ高齢者側にとって、あまり愉快ではない紙面です。

そこで、忖度見え見えの政治、社面記事と、葬送広告であふれる新聞を閉じようとして、ふと、気がついたのです。ちょっと待ってくれよ、そうはいうものの、百歳人生といわれる現在、そこに到る(かどうかはわかりませんが)まで、相当な期間の生活があるとすれば、その日々を、ただひたすら死の時を考えて暮らすのは、どんなものか、と。

昨日、わが街の、ラジオ体操会、中央公園に毎朝6時半のNHKラジオの時間に集まる100人ほどのメンバーが作った自然派性的な会が、春秋二回集会所に集まって行う懇親会に出席した80名ほどの会員のうち、なんと女性が30名の内半数以上の16名ほど、男性も少なくとも12,3名が、一人暮らしだったことを思い出したのです。昭和40年(1965)頃に都心から40キロほどの郊外に大規模開発された一戸建て住宅地である和が町の人口構成は、当時の30代後半の我々世代が殆んどです。従って、ほとんどの家庭が、すでに子供たちが結婚して核家族として独立して、別の街に家庭を持ち、いまや、孫たちもすでに成人して就職したり、進学して、高校、大学への受験に臨む年齢に達して、お爺ちゃんお婆ちゃんに頼らずに生きているのです。
「気がついたら、昨日も、一日中誰とも会わず、口もきかなかった」
「今日は『母の日』だったけれども、息子からカーネーションの花束が届いただけ」
「孫たちからも、近ごろうんもすんもない。もっとも、考えてみれば、『おばあちゃんの日』じゃないんだものね」
「僕は、もっぱらハンバーグ店や珈琲店のモーニングサービスと、コンビニ、セブンイレブンめしだ・・・」
 「何処へ行くってこともないんだけど、とりあえずリュック背負って盛り場に出たくなって・・・」
つまり超高齢化のわが街で、独りぐらしになってしまった方々は、認知症でなくとも、孤独死の危険にさえ、曝されているのです。
朝の公園でのラジオ体操会でもいい、俳句の会でもいい、歩こう会でもいい、やっぱり、人と人との繋がりを断ってしまっては、この先の人生、心許ないのではないか。
という次第で、『断』は、近所づきあいであれ、学校仲間であれ、仕事仲間であれ、出来る限りするべきではない。せめて、『減』にとどめるべきではないか、と。

プラスティック製品とポリ袋などの海洋放棄が、海を殺してしまう。電気製品や車、機械、産業廃棄物などの受け入れ国がなくなる。販売不振で、大量に作られた新しい洋服が、売り場に並ぶこともなく捨てられる。成長成長と攻めたてられ続ける過剰な経済活動が、無法な競争を産み、増長する貧富の格差が世界各地に戦争を産みつづけ、地球規模の汚染と共に、地球人類の消滅を速めている・・・針小棒大な、といってはいけません。現代の進歩社会では、針のような出来事が、瞬く間に巨大な事件になるのです。つまり、『捨』の経済は、罪悪なのです。
僕は、30年も前に、きちんと寸法を取って、多少の肥満や痩縮に耐える、改造の利く仕立ての良質な生地の洋服と、何やら不自然なほど細身の、化学物質の不織生地のズボンを見比べながら、使い捨てる、ことを思いとどまる決意をしました。『捨』は、地球人類の将来を侵す罪悪です。リサイクルの心掛けが一番です。

そして、『離』です。とっくに定年を迎えた今、現役時代の名刺や肩書きに拘泥して暮らすのは、たしかに見苦しいものです。名刺の裏に、何やら委員だの、何やら顧問だの実践の伴わない肩書きを並べているのは、愚です。でも、
「僕はもう、何もすることがない」と決めてかかって、ただひたすら飲んで食べて暮らすのは愚ではないかと思うのです。たしかに、往年やれたことがやれなくなったりはします。
でも、昔取った杵柄がとれなくとも、無経験でも、新しい事に挑戦することは可能なはずです。これも、老いた身を十分意識しながら、いま出来ることを探し出して試みてみることは、一日を充実したものに変えてくれるに違いありません。全てから離れても、空しさを感じる事のみで、楽しみが湧き上がってくることはありません。

という次第で、僕は、たとえ進歩が無くても、なんとかしてこの欄を『離』さずに、呟き続けます。


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