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医史跡を巡る旅 №56 [雑木林の四季]

博愛精神のルーツをたどる・日本赤十字社の揺籃

             保険衛生監視員  小川 優

前回ご紹介した「日本赤十字社発祥地」のプレートのほかに、千代田区内にはもうひとつ、「日本赤十字社跡」という石柱があります。「日本赤十字社発祥地」の立札のある(あった)東京逓信病院から飯田橋の方角に戻り、目白通りに出たら九段下方向へしばらく歩き、飯田橋三丁目交差点近くの歩道上です。直線距離で600メートルくらいは離れています。

「日本赤十字社跡」
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「日本赤十字社跡」 東京都千代田区飯田橋四丁目

千代田区が目白通り沿いに「飯田橋散歩道-サンポーロ―」を設定し、歴史の標柱のひとつとして建てたものですが、「日本赤十字社発祥地」同様平成31年4月現在見当たりません。こちらは設置されていた周辺が現在地下鉄の工事中のため、移動保管されている可能性があります。工事が終われば、いずれは戻されることを祈っています。

ところでこの二つの旧跡碑、なぜ離れた位置にそれぞれ設置されているのでしょう。こちらが前回もご紹介した高札風の「日本赤十字社発祥地」プレートです。

「日本赤十字社発祥地」
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「日本赤十字社発祥地」 東京都千代田区富士見 東京逓信病院敷地内

逓信病院敷地にある「日本赤十字社発祥地」高札には、「日本赤十字社は明治十年(一八七七)西南戦争の際、佐野常民・大給恒らが傷病者救護活動等のため設立した博愛社を前身としたもので、その本拠はこの櫻井忠興邸においた」とあります。

一方目白通りの石柱には「明治10年(1877)西南の役の時、佐野常民は博愛社を結成し、傷兵の救護活動を開始しました。明治19年(1886)、旧麹町区飯田町4丁目、現在の飯田町貨物駅のところに博愛社が病院を建てました。その年、日本は国際赤十字条約に加入し、翌20年に博愛社は日本赤十字社と名を改めました。明治27年(1894)、甲武鉄道が飯田町駅を建設するため立ち退き、この地に移転、大正元年(1912)に芝に移るまでここにありました。」と記されています。

石柱のある辺りは現在、千代田区飯田橋四丁目が割り振られていますが、明治時代は麹町区飯田町六丁目でした。大正元年に発行された東京市及接続郡部地籍地図を見ると、確かに飯田町六丁目の北東端に日本赤十字社の表記があります。

「東京市及接続郡部地籍地図 上巻」
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「東京市及接続郡部地籍地図 上巻」 国立国会図書館デジタルコレクション

明治10年(1877)櫻井忠興邸に置かれた博愛社の本社は、そのあと目まぐるしく移転したようです。明治39年発行の「日本赤十字社発達史」の記述をもとに、本社及び病院のその移転の経過を追ってみましょう。旧字、旧仮名遣いは現用表記としています。

明治10年
6月25日 博愛社仮事務所を東京富士見町櫻井忠興の邸に置く
明治11年
1月12日 博愛社事務所を芝公園内高松察民寮に移す。
7月28日 芝公園内の事務所を深川亀住町松平乗承の邸内に移し仮事務所となす。
明治12年
9月1日 博愛社事務所として麻布市兵衛町宮内省御用邸の内拝借の允許を得て、深川亀住町の事務所を此に移す。
明治14年
9月27日 麻布市兵衛町御用邸内拝借の事務所を宮内省に返納する。
10月2日 仮事務所を再び深川亀住町松平乗承の邸内に置く。
明治15年
4月29日 博愛社事務所として芝公園内海軍省所管第八号官舎拝借の允許を得て、此に移転する。
明治18年
3月3日 海軍省より借用せる芝公園内の官舎を返納し、仮事務所を麹町区三番町二十五番地に置く。
明治19年
4月22日 麹町区下六番町武者小路實世の邸宅を借り事務所を此に移す。
6月10日 事務所及び病院建築地拝借を、陸軍省へ稟請し允許を得て、麹町区四丁目三十一番地の内千八百三十三坪を受領せり。
8月16日 建築地増借拝井建物払下げの議、陸軍省の允許を得て、麹町区四丁目八番地面積千三百八十坪及び青山南町東京鎮台副病院内青山邸建物八棟百三十六坪余受領し、直ちに工事に着手せり。
明治22年
1月16日 病院新築地の拝借を宮内省に稟請して允許を得て、南豊島第二御料地の内、面積九千四百七坪を受領せり。
9月14日 宮内省より本社事務所及び病院の現在敷地麹町区飯田町四丁目三十一番地の内、皇宮地附属地三千十六坪余り下賜の恩命を拝せり。此の地所は明治19年陸軍省より拝借し、本年満期返納すべき時に際し、皇宮地附属地に編入せられたるものなり。
明治24年
5月1日 南豊島御料地内新築の本社病院落成により、本日移転開院せり。
明治27年
5月8日 本社拝領地麹町区飯田町四丁目三十一番地のうち、千四百二十八坪余りを甲武鉄道会社停車場敷地として同社へ譲興し、其の交換地として同町六丁目一番地千八百九十一坪余りを得て、事務所を此れに移転せり。

以上の経歴を要約すると、博愛社、後の日本赤十字社の本社は、明治10年に櫻井忠興邸に仮事務所を置いた後、ほぼ毎年のように移転しました。明治22年になって宮内省が所有する麹町区飯田町四丁目三十一番地の土地を下賜されて、やっと落ち着きますが、明治27年甲武鉄道、現在の中央線の飯田町駅の建設用地となるにあたり、同町六丁目一番地と交換しました。
まさしく目白通り沿いの石柱の説明の通りとなります。ちなみに飯田町駅とは、中央線飯田橋駅と異なり、現在大和ハウス本社や、エドモントホテルのある一帯の広大な敷地に近年まで貨物駅として存在していましたが、平成11年に廃止となっています。

大正元年、港区芝大門に建築家妻木頼黄設計の社屋が完成し本社は移転、昭和52年に改築されますが、現在も同じ場所にあります。

「日本赤十字社歴史画報 第五図」
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「日本赤十字社歴史画報 第五図」 日本赤十字社本社情報プラザ展示物

日本赤十字社本社にある情報プラザに展示されている日本赤十字社歴史画報の一ページです。飯田町の本社が描かれています。

「絵葉書 日本赤十字社本社」
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「絵葉書 日本赤十字社本社」

絵葉書に描かれている木造の平屋が、当初の本社となります。立派な西洋建築は、芝大門に移転し大正元年に竣工した旧本社。

「日本赤十字社旧本社社屋」
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「日本赤十字社旧本社社屋」 日本赤十字社本社ロビー

建築家妻木頼黄設計の旧本社社屋の模型が、日本赤十字社本社ロビーに展示されています。

「日本赤十字社ビル」
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「日本赤十字社ビル」 東京都港区芝大門

こちらが現在の日本赤十字社ビル。建築家黒川紀章の設計で、昭和52年に完成しました。


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