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立川陸軍飛行場と日本・アジア №178 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

関東防空大演習を嗤う

             近現代史研究家  楢崎茂彌

 陸軍飛行第五連隊から高射機関銃隊が演習に参加?
 前回、 “今朝未明より某国敵機に依り帝都は襲撃を受け、往年関東大震災の如き混乱に陥りたり。飛行第五連隊は速やかにその一部を予定の部署に就き、宮城近火警御に任ずべし。”という命令が出たと読売新聞が報じていますが、当時の記録によると演習に参加する航空部隊に第五連隊が含まれていないのが謎だと書きました。
  読売新聞の記事は、次のように続いています“田中連隊長は直に田中中尉をして高射機関銃部隊を編成指揮に当たらしめ、直に東京にむけて出発、西郷中尉に命じて八八式偵察機二台を準備、藤森少尉と共に敵機駆逐の準備を整え命令一下を待ち、数回に亘り三多摩上空警戒飛行を試みる。尚御近火警衛の田中中尉以下は第二日演習後、原隊に復帰する。”すると、飛行第五連隊の偵察機は準備飛行をしたものの演習自体には参加しなかったようです。「関東防空演習結構の概要」(関東防空演習統監部・1933.6.22)に“関東防空演習陸軍参加部隊二 近衛師団の一部(歩兵、野砲兵及び通信部隊)”とあるので、陸軍飛行第五連隊は、近衛師団の高射機関銃部隊として演習に参加したということになるのでしょうか。何だか腑に落ちませんね。
 関東防空大演習2日目に当たる8月10日正午前、第五連隊第二中隊の川上航空兵伍長が操縦する八八式偵察機が僚機と戦闘訓練中にエンジンから発火し、青梅線の高圧線に機体を引っかけ桑畑に墜落する事故が起こりました。幸い川上伍長は軽傷ですみましたが、墜落現場に駆けつけた11歳の滝下濱男君が切断された高圧線に触れて大やけどを負いました。新聞の記事だけで判断は出来ませんが、関東全域に亘る演習中に第五連隊が独自に戦闘訓練を行なうようには思えません。演習と第五連隊との関係の謎は深まりました。

178-1.jpg 関東防空大演習を嗤う
 右の紙面は、演習3日目に当たる8月11日「信濃毎日新聞」の第1面です。“帝都爆撃を敢行”“関八州宛然泥沼の底 闇黒に火焔!爆音!銃火! 昨夜の帝都空襲”などの見出しが踊っています。そして第2面には“関東防空大演習を嗤う”と題した評論が掲載されました(右上)。筆者は主筆の桐生悠々です。悠々は、大正政変の時期に「信濃毎日新聞」主筆として筆をふるい、後に社長と対立して退社、昭和3(1928)年に再び主筆として迎えられたのです。1面と2面を並べてみると、桐生主筆の主張が記者たちに共有されていた訳ではないことがわかります。
  “関東防空大演習を嗤う”は有名な文章なのでご存知の方も178-2.jpg多いかと思いますが、原文の一部を紹介します。
   “将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだらうか。何ぜなら、此時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだらうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだらうからである。如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生如何に訓練されてゐても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだらうとも、想像されるからである。しかも、こうした空撃は幾たびも繰返へされる可能性がある。
 だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。この危険以前に於て、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落すか、またはこれを撃退しなければならない。”
  東京大空襲などを予測した極めてまっとうな議論だと思いますが、批判された陸軍は信濃毎日新聞に、悠々を処分するように圧力をかけます。
 
  桐生悠々「信濃毎日新聞」を退社し個人誌「他山の石」を刊行
 悠々は「他山の石」第3年11号(1936.6.5)に、退社の経緯を説明した“本誌発行の遠因”という記事を書いています。記事によれば、長野県在郷軍人同志会は連隊司令部の指導のもと、信濃毎日の不買運動を決議し、新聞社を焼き討ちにするとの流言飛語を流します。さらに代表7人が新聞社を訪れ小坂常務に面会し悠々の処分を迫ります。その理由は“苟も陛下の令旨により「重要」と保障されたところのものを非議するのは「不臣」の極みである”という言いがかりでした。
 悠々はこれに対して反論の用意も、軍に逆らう決死の覚悟も持っていましたが、社に累が及ぶことを避けるため、退社の道を選びます。軍のやり方は、悠々に直接圧力をかけるのではなく、まわりを締め付ける形で彼を退社に追い込んだ訳です。
 そののち悠々は、名古屋に移り新聞社の編集顧問の職を得ようとしますが、かつて筆を揮ったことがある大阪朝日新聞も大阪毎日新聞も、彼を受け入れることはありませんでした。そこで、悠々は組織に属することなく、個人誌「名古屋読書会第一回報告」を発行し、第一四回から「他山の石」と改題し、しばしば発禁処分を受けながら昭和16(1941)年まで、刊行を続けました。

 言いたい事と言わねばならぬ事と
  「他山の石」同号には、“悠々の思いが綴られています。
    “人動もすれば、私を以て、言いたいことを言うから、結局、幸福だとする。だが、私は、この場合、言いたい事と、言わねばならない事とを区別しなければならないと思う。
 私は言いたいことを言っているのではない。徒に言いたいことを言って、快を貪っているのではない。言わねばならないことを、国民として、特に、この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。
 言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である。何ぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だからである。尤も義務を履行したという自意識は愉快であるに相違ないが、この愉快は消極的の愉快であって、普通の愉快さではない。
 しかも、この義務の履行は、多くの場合、犠牲を伴う。少くとも、損害を招く。現に私は防空演習について言わねばならないことを言って、軍部のために、私の生活権を奪われた。私はまた、往年新愛知新聞に拠って、いうところの檜山事件に関して、言わねばならないことを言ったために、司法当局から幾度となく起訴されて、体刑をまで論告された。これは決して愉快ではなくて、苦痛だ。少くとも不快だった。
 私が防空演習について、言わねばならないことを言ったという証拠は、海軍軍人が、これを裏書している。海軍軍人は、その当時に於てすら、地方の講演会、現に長野県の或地方の講演会に於て私と同様の意見を発表している。何ぜなら、陸軍の防空演習は、海軍の飛行機を無視しているからだ。敵の飛行機をして帝都の上空に出現せしむるのは、海軍の飛行機が無力なることを示唆するものだからである。”
 海軍の関東防空演習についての見解は前回紹介しました。また、「キング」1933年9月号の“実戦同様!空前の大規模!帝都防空大演習の話”は、記者が石本五雄東京警備司令部参謀と田中頼三横須賀鎮台参謀に聞くかたちをとっていますが、田中参謀は次のように語っています。“大体帝国海軍は、敵の航空母艦を我が沿岸に近づけるといふような事は、絶対にしたくないのであります。根本的な防空は、進んで敵の航空機の策源地を撃破することです。策源地は陸上で言えば飛行場、海上で言えば航空母艦です。だから海上では敵の航空母艦を捜索し、撃沈すれば一気に数十機を屠ることが出来るのです。海上面では我が海軍が、厳然として太平洋上に目を光らせている以上、そう易々と沿岸に近づける事はない。すなわち海上防衛は防空の第一線であります。”
  桐生悠々が言うように、言わねばならぬ事は言わねばならないと思います。森友・加計問題、公文書改竄、統計偽装など、忘れてはなりません。真実究明を求めて“言わねばならぬ事は言わねばならぬ”。
  昭和16(1941)年9月10日、「他山の石」の読者に廃刊の挨拶が届きました。悠々は挨拶を次のように締めくくっています“時偶小生の痼疾咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能はざるやうに相成、やがてこの世を去らなければならぬ危機に到達致居候故、小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も、唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候”。この日悠々は長男の膝に抱かれて68歳の生涯を閉じました。

写真1   「信濃毎日新聞」1933年8月11日 第1面
写真2   「信濃毎日新聞」1933年8月11日 第2面


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