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文化的資源としての仏教 №17 [心の小径]

「縁起と因縁3-ご縁」文化的資源としての仏教最終回

             立川市・光西寺  寿台順誠

 さて、私は「文化的資源としての仏教」と題するこのエッセイを書き始めてから、最初2回は総論的な問題を記し、次に「往生」(第3回~第7回)、それから「四苦八苦」(第8回~第14回)という言葉について考えた。が、そこまでは結構順調に話を進められたが、その次に「縁起と因縁」について考えるという予告をし、「縁起」も「因縁」も元来は因果に関する仏教の根本思想を表す言葉であるのに、「縁起が良い・悪い」や「因縁をつける」といった、仏教の因果論がどこかで捻じ曲げられて派生したのではないかと思われる言葉について、そのルーツを確認し、それが仏教本来の因果論としての縁起説とどのように関係しているのかを考えてみたい、としておいた(第15回)。が、そのようなルーツを突きとめるのは難しいことであろうし、そもそも不可能なことかもしれないので、一応「この問題に何らかの目処が立つまで、しばらくの間(場合によっては、数か月間になるかもしれないが)このエッセイを休ませていただきたい」とお断りしておいた。が、それから何も調べられないまま、「数か月」どころか「1年半」もの年月が経ってしまった。ただその際もう一つ私は、「この休止状態を永遠に先送りするつもりはないので、ある程度のところで見切りをつけて、仮に以上の語法のルーツを辿ることが不可能だと考えるに至ったならば、話を別の形で展開するなどのことを考えることにしたい」ということも付け足しておいた。今回、忘れた頃にこの文章を書いているのは、そろそろ「見切りをつけて…話を別の形で展開するなどのことを考える」べき時が来たと思うに至ったからである。
そしてそう思ったとき、私が改めて思い出したのが上記の結婚式の話である。つまり、「縁起」や「因縁」という本来は仏教の因果に関する思想を示す言葉が、「縁起が良い・悪い」などといった形で捻じ曲げられて行くのは――そうした派生語のルーツはよくわからないとしても――、結局、マイナスの価値を示すこと(上記の文脈で言えば「離るべき縁」)は何でも避けて通ろうとする我々人間のもつ性向によるのではないか、と思ったのである。日頃、僧侶をしていると、どれだけ近代化が進み科学技術が発達しても、人は「縁起が良い・悪い」という観念から免れることはないだろうと思わされることが多い。「友を引く」といけないので友引に葬儀をしない、死者が帰ってくるといけないので火葬場から葬儀会場に戻る時には同じルートを通らない、死は穢れているので清め塩を用いる等々(←別に友引に葬儀をしなくても、人は誰でも皆いずれは引っ張って行かれるのだから、心配無用だ! 懐かしい故人なら、ついて帰ってきてもらえばよいではないか! 死を穢れと見て塩をまくのは、死すべき運命をもつ将来の自分に向かって撒いているようなものではないか!)。今も、「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ ト占祭祀つとめとす」(『正像末和讃』)と親鸞が悲歎せざるを得なかった時代と、本質的には変わっていないのではないか。まったく「恥ずべし、傷むべし」(『教行信証』信巻)である。
以上、ともかくこの話を記すことで、「縁起と因縁」の一応の区切りとしたい。(「因縁をつける」という言葉については、この文では触れられなかったが、これは本来因果関係のない事柄を、別の目的のために無理やり関係づけようとするという意味をもつ言葉だと思うので、これについても仏教本来の因果論から考えていけば、「反仏教的」或いは「疑似仏教的」な言葉であることは明らかであろう。この語源についても、また機会があれば調べてみたい。)

なお、以上のように文章が書けなくなってしまったこの期間に、物書きでもない私にとっては、そもそもこのブログのためにモノを調べて書き続けるということには限界がある、ということも痛感させられた。従って、この「文化的資源としての仏教」というエッセイそのものを、これで打ち切りにさせていただきたいと思うようになった。当初計画していたよりも早い打ち切りとなるが、今までのところでも結論的に言えることはある。それは、我々日本人は、日常、無意識のうちに随分多くの仏教用語をそれと気づかずに、また仏教本来の意味とは異なる形で使っているが、その使い方を少し反省し見直してみることによって、少しずつ仏教徒に近づいて行けるのではないかということである。その意味において、ここまで取り上げた「往生」「四苦八苦」や「縁起・因縁」に限らず、日常使用している言葉を検討し直す作業は今後も折に触れて続けていきたいと思っている。

最後に、以上のように今後はこのブログのためにモノを調べて書くことはできませんが、私が住職をしている光西寺で日常的に行っている学習会の報告なら継続することができると考え直しました。そこで、次回以降は(不定期的になるとは思いますが)私が光西寺で行なっている「親鸞文学研究」について、随時このブログに報告させていただきたいと思います。詳しくは次回紹介させていただきますが、とりあえず光西寺のホームページ(https://www.kousaiji.tokyo/)をご覧ください。


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