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木漏れ日の下で №23 [雑木林の四季]

「王育徳記念館」その三

          詩人・エッセイスト  近藤明理

 三月の半ば、久しぶりに紀念館に行ってきました。東京を出る時はダウンコートでしたが、台南はもう初夏の気候で、「王育徳記念館」のある呉園の芝生の庭はもう青々としていました。呉園の道路側に立つ台南公会堂は日本統治時代の1911年に建てられたもので、バロック建築と瓦屋根の部分とが融合したとても趣のある建物です。呉園の庭の奥にある「王育徳記念館」はこの公会堂の裏にあるので、道路からは見えません。公会堂の脇に回ると一段低くなったところに呉園の庭が開けて見えてきます。奥に池とエキゾチックな建屋があり、アプローチの先に「王育徳記念館」と書かれた文字と大きな父の写真が立っています。
 実は、ここに来る度に私は妙な気持ちになります。ずっと台湾に帰れず日本で暮らしていたはずの父、1985年に亡くなったあとも東京にある墓地に眠る父が、今は一人台南にいて私が来るのを待っていたかのような不思議な感覚です。

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 亡命者の娘として日本で生まれた私には、ずっと田舎がありませんでした。祖父母の誰にも会ったことがありませんでした。それが、この年になって、急に台南に行くと父が待っていてくれるようになったのです。
 そして、紀念館を後にする時、いつも父を置いて帰ってしまうようで胸がしめつけられるのです。でも、父にはここで新しい役目ができました。台湾人が平和に安心して住める国になるまで、ここで静かに故郷を見守っているよ、と言っているように感じます。

 さて、前回のつづきで、紀念館の第二室についてご紹介しましょう。
 パンフレットには以下のように書かれています。

第二室 言葉は民族の魂である―台湾語の研究―

   王育徳は、「言葉は民族の魂である」という信念を持ち、「台湾人」が民族として
   存続していくためには、台湾語の発展と人口に膾炙した表記法の確立が不可欠だと
   考えていた。それゆえ、育徳が日本に渡り東大に復学して最初に着手したのは、台
   湾語(ホーロー語)の研究であった。
    それ以前には、台湾語の科学言語学的研究はほとんど行われていなかった。王は、
   当時世界的にも最先端であった言語学研究方法にのっとって台湾語の研究を進め、
   音韻論や語法などに関する多くの論文を発表し、高い評価を得た。
     1957年には台湾人として初の台湾語辞書『台湾語常用語彙集』を出版し、その際
        には苦労して手に入れた家を売却して費用を捻出した。
     また、大学にて世界初の台湾語の授業を行い、『台湾語入門』・『台湾語初級』な

         どの学習書を出版することで、多くの後進を育てた。

  父が1949年、25歳で日本に亡命した後、真っ先にやろうと思ったのは母語、台湾語の研究でした。その為に、東京大学に再入学し、博士課程を卒業するまで丸10年間、言語学の研究に専念しました。のちにエッセイ「台湾語の研究」にこのように書いています。

「台湾語の研究は、その成果が台湾語の墓碑銘になろうと、頌徳碑になろうと、わたしがやる以外に人がない。台湾には台湾語をよく知り、関心をもつ人が少なくないが、台湾語を学問的に研究できる環境でない。わたしが知っている砂漠のような環境は、ますますひどくなりこそすれ、改善されることはない。」
 
 どういうことか少し説明しましょう。御存知のように台湾は戦前、50年間(1895年~1945年)日本統治下にあり、学校教育や公の機関では日本語が使用され、台湾人の母語は家庭内での使用だけでした。戦後、日本が去り、中国国民党の統治が始まると、今度は北京語が国語として強制され、台湾語は戦前よりも更に厳しく使用を制限されるようになりました。台湾語と北京語は、英語とドイツ語よりも差異があり、台湾人にとっては全くの外国語でした。それを一から学び直すことを強いられたのです。台湾語と一口に言っても、実は様々で、一番多くの台湾人が話すのが福建語系のホーロー語、他に広東語系の客家(はっか)語、原住民諸語があります。(台湾の先住民は現在16種族が認定されているが、種族ごとに言語が異なる。ちなみに、「原住民」というのは差別語ではなく、正式な総称。以前は高砂族と呼ばれていた)いずれにしろ、中国国民党政権の厳しい言論統制の下、台湾語は家庭外では使用することを日本時代以上に厳しく禁じられてしまいました。
 その為、父はこのままでは、台湾語は滅んでしまうかもしれないと危機感を覚え、台湾語を言語学の面から研究し記すことが必要だと考えて、その難しい研究を自分に課したのです。
 さらに、もう一つ台湾語の為にするべきことがありました。それは、表記法の確立でした。「台湾語は話し言葉で表記文字がなかった」というと、多くの日本の人が首を傾げます。しかし、実は、世界には、表記文字をもたない言語というのは多く存在します。
 台湾人も、日本の統治を受けるまでは、台湾語を書くことができませんでした。そもそも学校がなく、一部の人だけが寺小屋のようなところで勉強したのです。例えば、私の祖父はとてもきれいな漢文を書きましたが、学んだのは寺小屋に於いて中国から伝わった論語などでした。中国語はできないので、台湾語をあてて読んだそうです。ちょうど、私たちが学校で習った漢文のようなものです。漢文を読む時、中国語ができない私たちは、レ点を付けて、日本語風に読み下し文で読んだことを覚えている方もいらっしゃるでしょう。
 日本に亡命した父はいつか台湾が台湾人自ら統治できる国になることを願い、そうなった日には、台湾語が当然、国語になるだろう、その日の為に台湾人が使いやすい台湾語の表記文字を早く作らなくてはならない、という使命感を持っていたのです。
 それまでの台湾には、一つだけ台湾語の表記法がありました。それは外国から来た宣教師たちが、布教の為に作った教会ローマ字でした。台湾語の発音をローマ字で表記したものです。聖書が台湾語教会ローマ字で書かれ、信徒はそれを読むことができました。
 教会ローマ字には実用性はありましたが、当然、言語学的に見れば、さまざまな不備があったわけで、父はそれを改良して、王式第一表記法と第二表記法を考案しました。
 そして、それを利用して、大学在学中に台湾語常用語彙集という辞書を出版しました。
 けれど、後に、父はこの自分の苦労の結晶である表記法を捨て、教会ローマ字を使用することを推奨しました。私はこの点が父の一番偉いところだと思っています。
 つまり、父は、自分の研究がいくら正しくても、実際には使用できる台湾人はいないことを考え、それよりは、多くのクリスチャンが読むことのできる教会ローマ字を使用したほうが、台湾人にとっては便利だろうと考えたのです。
 学問を机上の空論にせず、人々の役に立てることの必要性を重んじたのは、父、王育徳の一つの特徴であったと思います。


      *    *    *    *    *    *    *    

         父の書斎
                        近藤 明理
     
      実家で一番好きな場所は
      父の部屋だった二階の六畳間
     
      突然逝った父は
      やり残した仕事をするために
      あれからもずっと
      自分の部屋で
      机に向かっているような気がしていた
     
      今でも
      この部屋には
      いつも 父の気配がある
      インクや古い本や辞書の匂いと共に
     
      今も時おり
      父を慕ってくれる人たちが
      実家を訪れる
     
      父の部屋へ案内して
      ――ここで 台湾語の研究を続けたのですよ
      この狭い部屋に留学生が集まって
      台湾独立運動をはじめたのですよ
      と言うと みな真剣な眼差しになる
     
      ――どんな小さなところからでも
      あなたも始めることができますよ
      そんなふうに
      父が優しく語りかける


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