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コーセーだから №50 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」  11

“誠意と熱意〟を貫く
抜群の売り上げ高あげる

         (株)コーセーOB  北原 保

セールスマンのころ

 小林コーセーの〝成功の秘密〟は創業者小林孝三郎の〝成功の歴史〟である。それは後述するように、なまやさしい道のりではなかった。
 コーセー化粧品は、創業25周年を迎える。がその記念として創業いらいの〝コーセーの歩み〟を計画中である。(「化粧品ひとすじ」のタイトルで創業30年史として発行)
 が、つい先日、その企画のひとつとして、東洋堂の高橋三四郎社長、田辺誠一専務をかこんで〝東洋堂時代の小林孝三郎〟を語る座談会を開いた。その席で高橋社長は小林氏を評してこういったものだ。
 「小林君という人は、私も、いろいろな人間に会ってきました。が、こんな人はいままで見たことがないね。仕事熱心で食いついたら離さない。いいかげんなことをしないし、徹底的にやりとおすという根性のかたまりのようなひとでした。これがコーセーの成功のすべてといっていいでしょう」
 高橋三四郎社長は先代志摩五郎社長の子息で、小林氏より4才下、東洋堂に入社したころの小林少年は、学校に通っている三四郎少年の姿をうらやましく思ったものである。
 大正10年ごろ、蔵前の工業高校(現東京工大)を出て東洋堂の社員だった高橋三四郎社長は、平尾商店のパール化粧品の失敗を機会に、アイデアル化粧品本舗をはじめた。当時、化粧品の下請けメーカーだった東洋堂が化粧品を製造して販売するというのだから大変なこと。そのとき小林氏ほか2人が工場から選ばれて販売を担当することになった。いまのセールスマンである。
 ところが、1年もすると3人のセールスマンのうち、小林氏の売り上げは他の2人の倍になり、10倍も売り上げていった。「いったこれはどういうわけだ」ということになった。
 「それは前にもいった〝誠意と熱意〟ということなんです。ごく当たり前のことですが、これがあるとないとでは大変にちがったんですね」
 そのころ小林氏は社員たちから「聞き上手で話し上手」といわれた。先方の話をよく聞いてこちらのポイントを話しするのはセールスマンの常識である。が、聞き上手と仕事に熱心でなければできないこと。
 「外交というのは、日本の外交も同じことでおべっか外交では人は信用してくれない。まず商品がよく説明できなければダメだ。それにはよく商品を知るということです。私はセールスマンになる前、10年間工場で働いていたのが幸運でしたね。化粧品全部を身体で知っていたんです」
 商品知識はたんに商品内容を知っているということではないようだ。小林氏は化粧品の匂いをかいだだけで、さわっただけで品質がわかるというのだ。
 「あのころ、北海道から九州のはじまで小売店や代理店をまわってセールスした。とにかく全国の小売店の店主の顔と住所を知っている点では、今でも業界の第一人者じゃないかね。これは後にコーセー化粧品の販売組織をつくるときに大いに役立ちましたね」
 小林社長は、年一度のコーセー会に出ると、あちこちから「社長」「社長」と声がかかる。店主と並んで気安く写真にもおさまる。宴席になると酒好きの小林社長はお酌をしてまわり、昔日のセールスマン足りし日の話に耽ける。が、親しい店主の死を知らされたときは、じーんと自分の胸があつくなる。その一人一人の思い出が走馬灯のように身体を走っていくのだ。
 「だが、まだ私は若いですよ。日本の地理は先生よりくわしいんじゃないかな。都市の名は北海道から九州までソラで覚えていますから。全国どこにだって鉄道とバスをどう利用したらいちばん早いか知っていますよ。だが、よく全国をまわりましたね」いまはジェット機時代であるが、いまだに秘書がおたおたすること度々だそうだ。
 小林孝三郎の〝生き方〟は、小林コーセーにとっては蓄えた財産のようなものである。
                                                      (昭和44年10月18日付)


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1950年には取引店の全国組織としてコーセー全国連盟を結成
15-1951年神戸のコーセー会(取引店とは膝を交えて話すことをモットーとしていた).jpg
1951年神戸のコーセー会(取引店とは膝を交えて話すことをモットーとしていた)

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