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文化的資源としての仏教 №16 [心の小径]

           「縁起と因縁(2)―― ご縁」

             立川市・光西寺住職 寿台順誠

 「二人は立川で出会いました。ですから、まず立川で式を挙げようということになりました。そして、二人の出会いの意味を考えていくと、〈ご縁〉という言葉が浮かびました。それで、〈ご縁、ご縁〉と考えていて、〈ご縁〉なら仏前でしょう、と思ったのです。最初はホテルで式を行い、そこにお坊さんを呼ぶことも考えました。でも、ホテルはお香を焚くのを嫌がります。それならどこかお寺さんにお願いしようということになりましたが、彼の実家が浄土真宗ですので、それでこちらにお願いしたいと思いました。」

 もう15年ほども前のことだが、ある日、飛び込みでやってきたカップルに結婚式の司婚を頼まれたことがある。そんなことは、(築地本願寺のような別院クラスの寺院では珍しいことではないかもしれないが、一般の)お寺にとってはほとんどないことである。実際、結婚式の司婚など、一生頼まれない僧侶も多いだろう。
葬式なら、極端な話、今日いまから来てくれと言われても、時間さえ空いていれば、対応することができる。しかし、結婚式となると勝手が違う。私自身の結婚式は僧侶だから当然「仏前」で行なった。また、日頃から「仏教徒なら仏前で結婚式を挙げるべきではないですか」などという話もしてきた。が、飛び込みで結婚式の司婚を頼まれることなど、まったく想定外のことだった。宗派の儀式マニュアルに仏前結婚式の仕方が書いていることも知ってはいたが、実際に行なったことはなかった。だから、そのカップルには何度か寺に来ていただきリハーサルを行った上で、結婚式を執り行うことにした。
 ところで、経験したことのない仏前結婚式の司婚をする上で、最大の問題は法話だった。せっかく二人が考えた末に光西寺を選んで下さったのだから、何かそれに相応しい話をしなければならないと思い、それを考えるために「なぜ仏前で結婚式を挙げようと思ったのですか?」と聞いてみた。それに対して返ってきた答えが冒頭に記した言葉である。「なるほど〈ご縁〉か。さもありなん」と最初は思った。ところが、すぐ次の瞬間、『歎異抄』6条の次の言葉が頭に浮かんできた。

 「つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離るる」

 これは「親鸞は弟子一人ももたず」ということが述べられた文の中で言われていることである。つまり、「つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離るる」のだから、「わが弟子、ひとの弟子」などと言って争うのは「もってのほか」だというのである。
 しかし、結婚式では「つくべき縁あれば伴い」ということは言えても、「離るべき縁あれば離るる」などということは、なかなか言えるものではない。結局、私はその結婚式では、二人が結ばれることになった「縁」のもつ積極的・肯定的な側面のみを強調する内容の法話をしたと記憶する。(何を話したか細かい点は覚えていないが、その時、式の手伝いを頼んだ大学院生が挙式後、「法話をお聞きしていて、〈あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら 僕等は いつまでも 見知らぬ二人のまま〉という小田和正〈ラブ・ストーリーは突然に〉の一節が自然に浮かんできました」と言っていたので、私の話はそれなりに結婚式には相応しい雰囲気は醸し出していたのであろう。その意味では、その時の法話は成功したのだと思うが、しかし「縁」のもつ消極的・否定的な側面にまったく触れられなかったことには、何かモヤモヤした感じが残ったままだった。)
 以上のことを通して、私は仏教というのは本当に結婚式には向かない宗教だということを、改めて思わされた。そもそも「永遠の愛」だの「変わらぬ絆」だのという、一般に結婚を飾る場合に使われやすい言葉など、「諸行無常」を説く仏教から積極的には出てくるはずがないではないか。それ以来、私は「仏教徒なら仏前で結婚式を挙げるべき」というようなことは、言わないことにした。「仏教徒なら仏前で、キリスト教徒なら教会で…」といった言い方は、実は宗教の「教え」や「信仰」とはあまり関係のない、単なる「習慣」や「習俗」の話にすぎない。実際、教会で結婚式を挙げる人の、一体どれだけが真に「キリスト教徒」と言えるのだろうか。
 いずれにせよ、例えば現在「逆縁」と言われるような苦境に立たされているということがあったとしても、それも然るべき因果関係があってそうなっているということを理解し、そうした境遇を引き受けた上で、将来に向かって努力精進していくところに、仏教の根本教説としての「縁起」の意義があるはずである。だから、「つくべき縁」の方だけを飾り立てて、「離るべき縁」の方を忌避するのは仏教的とは言えないだろう。
 但し、かつて「前世の宿業によって被差別部落に生まれた」と言ったり、ハンセン病を「業病」と呼んだりして、仏教の教えを差別の正当化に使うという歴史があったが、これは「業」や「縁起」の教えが誤って運命論的に利用されたものである。今はこの問題には立ち入らないが、上記の「つくべき縁」も「離るべき縁」もどちらも、然るべき因果関係によるものとして受けとめるべきであるというのは、そのような運命論的な意味ではなく、むしろ将来に向けて何をなすべきかを考えるために重要である、という意味で言っていることだと受けとめていただきたい。

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