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雑記帳2019-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-4-15
◆江戸の花見もかくや。3月末の飛鳥山は満開の桜でした。

今年は暖冬といわれながら桜の開花はさほど早くはなく、東京の桜が満開を迎えたのは3月も末でした。
この日、飛鳥山の桜を見るべく集合したのは東京メトロ南北線の西ヶ原駅。ここから王子までを歩きます。

印刷局東京工場、滝乃川警察署を横にみながら、本郷通りを進むと、西ヶ原一里塚の碑がみえてきます。江戸時代、街道の一里ごとに一里塚が築かれ、塚の上には榎が植えられていました。この一里塚は日光御成道の、日本橋から2番目にあたります。23区内には一里塚は18か所あったといわれていますが、当時の位置を保っているのはここだけです。大正時代に市電延長のため、撤去されそうになった一里塚を、渋沢栄一らが保存運動をして残したことが碑に書かれています。

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一里塚の二本榎(とおり向かいにもう1本の榎がある)

将軍の日光参詣のお供は、驚くなかれ、吉宗の時代に最大13万3000人もいたそうです。費用は今の金額にして200億円かかったといいます。当時一番と言われた加賀藩の大名行列でさえ4,000人でしたから、全国の大名がこぞって従った、徳川の威光は推して知るべしです。

伊邪那岐命をはじめとする祭神が7神なので名づけられた七社神社は、古くから西ヶ原の鎮守でした。明治時代の神仏分離によって、現在の古川庭園内にあった無量寺の社が、現在の地にうつりました。もともとこの地にあった神明宮は、樹齢1000年以上といわれる杉があったことから一本杉神明宮とよばれていたことが、江戸切絵図に見えます。この大木の幹がいまも境内に残されています。神楽殿では9月の大祭に「江戸里神楽」が奉納されます。
近くにあるゲーテ記念館は15万点を所蔵し、世界中から研究者が訪れるそうです。

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七社神社
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神明宮の一本杉の幹だけが今も保存されている
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境内にある緑色の御衣黄桜もほころびて
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神楽殿

日本近代経済の基礎を築いた渋沢栄一の屋敷跡が、旧渋沢庭園として区民に開放されています。庭園内にある青淵文庫(せいいえんぶんこ)や晩香炉(ばんこうろ)は、国の重要文化財となって、昔の面影をとどめています。
青淵文庫は、渋沢栄一の傘寿の祝いと、子爵昇爵の祝いを兼ねて、竜門社(現・渋沢栄一記念財団)が贈った鉄筋コンクリート2階建ての建物です。書庫として使われました。「青淵」は、渋沢栄一の雅号です。
晩香廬は、渋沢栄一の喜寿の祝いに清水組(現・清水建設)が贈った洋風茶室です。内外の賓客を迎えるレセプションルームとして使われました。18代アメリカ大統領ユリシーズ・グラントや中国の蒋介石など多くの要人が招かれ、民間外交の場となりました。

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青淵文庫
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晩香廬室内
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庭園内にある渋沢栄一像 小柄な人だったようです。

飛鳥山公園は渋沢庭園のとなりにあります。その入り口にあるのが渋沢史料館です。
渋沢が手掛けた事業は500を数えますが、全て他者に渡して自らは財閥をつくらなかったため、今、渋沢の名を残す企業は渋沢倉庫のみだということです。
史料館の横に立つ平和の女神像は北村西望の作品です。長崎の平和の像を造った北村のアトリエが一時期、西ヶ原にあったのだそうです。

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渋沢史料館
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北村西聖の平和の女神像

飛鳥山公園は、8代将軍吉宗が庶民の行楽のために桜を植樹して開放した日本初の公園です。当時桜の名所は上野、向島、品川御殿山とこの飛鳥山でしたが、中でも飛鳥山は「野暮」といわれながら、庶民に人気のスポットでした。ソメイヨシノが満開のこの日、ふもとのJR王子駅から登ってくる、食料を入れた発砲スチロールの箱やレジャーシートを抱えた人の列が絶えませんでした。桜の季節に近くまでくると、(人の波で)山全体がうなっているようだと言った人がいました。ふもとの公園入口から山の上まで2分というモノレール(あすかパークレール)に乗る手もありますが、こちらは後尾が判らないほど延々の長蛇の列(待ち時間2時間!)でした。

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飛鳥山のふもとは王子駅に沿って音無(おとなし)親水公園になっています。隅田川にそそぐ石神井川が流れにつれて龍野川となり、音無川と名をかえたところは、かっては雨がふるとあふれる暴れ川でした。音無川は、何とかおとなしくしていてほしいという、庶民の願いのこもった名前だとか。土手の桜は花見客でにぎわいました。水を流さなくなった今も、桜の木の下で酒盛りをする人でいっぱいです。商店街には卵焼きで有名な「扇屋」がありますが、ここも行列ができていて、並ぶのをあきらめました。宝くじを買う店のはるか向こうに最後尾の看板を持つ案内人がいたり、評判の絵を見るために美術館を何重にも囲んだり、江戸っ子は気が短かったのを忘れるほど、日本人は並ぶのをいとわないようです。

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音無親水公園(川底いっぱいに花見客のブル-シートが見える)

王子といえば狐です。昔、このあたり一帯は一面の田畑で、とても寂しい場所でした。その中の一本の榎のもとに、大晦日になると関東一円の狐があつまり、衣装を整えて近くの王子稲荷へ初詣でをしたという言い伝えがあります。榎は装束榎と呼ばれました。その様子は広重の浮世絵にも描かれています。言い伝えは今も12月31日の「王子狐の行列」として地元の人々にうけつがれています。

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装束稲荷神社

狐たちの初詣でのゴール、王子稲荷神社は関東稲荷の総社という高い格式を持ち、江戸時代から庶民に親しまれてきました。境内にある「狐の穴跡」は落語「王子の狐」の舞台になっています。

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王子稲荷神社
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王子稲荷本殿の格天井

王子稲荷を少し進めば名主の滝公園です。名称は、王子村の名主、畑野家が屋敷内に滝を造って一般人が利用できる避暑の施設にしたことに由来しています。所有者はかわりましたが、今は飛鳥山公園、音無川親水公園とともに、区立公園として開放されています。
中を歩けば、池あり、谷あり、もちろん滝あり、桜あり、楓あり、橋あり、渓流ありの、規模も様式も、名にしおう大名庭園におとらぬものでした。

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名主の滝公園の男滝

散策の最後は王子神社で締めます。王子の名前のもとになった神社です。
古くは岸村と呼ばれたこの地に、紀州熊野三所若一王子が勧請されて、熊野信仰の拠点になり、名前も王子村となりました。民族芸能「王子田楽」は北区指定の重要無形文化財です。天然記念物の大銀杏ヤ、ユニークな毛髪供養の「毛塚」があります。

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王子神社 のコピー.jpg
毛塚のある関神社は理・美容業界の信仰をあつめているそうです。

お昼は王子駅のそばの小さな店、フルカワヤ。
小さいながらおいしいと評判の店は、食材に、江戸東京野菜や地方の固定種を扱う、シェフのこだわりの店でした。

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前菜は滝乃川人参のパテ、世界で一人しか生産者のいない赤レンコン、早稲田茗荷など・・・
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デザートの焼き菓子にも滝乃川ごぼう(右奥)がつかわれている。

今号がアップされる直前の4月9日、渋沢栄一が新しい1万円札の顔になることが発表され、飛鳥山の渋沢史料館や深谷市にある渋沢栄一記念館が紹介されました。
雑記帳では、何年か前に、深谷の渋沢栄一記念館を訪ねた報告をのせています。

◆花冷えがつづいた今年は、東京でも満開の桜花を長く楽しむことができました。
4月中旬の国営昭和記念公園は、この時期には珍しい、桜と草花の競演が見られました。

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桜とチューリップ(渓流広場で)



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