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多摩のむかし道と伝説の旅 №25 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

      鑓水商人の夢の跡、絹の道・浜街道をゆく 8

                   原田環爾

24-4.jpg 24-5.jpg永泉寺を後に元の嫁入橋に戻る。橋名は永泉寺の裏にある谷戸が嫁入谷戸と呼ばれていることからくるのであろう。嫁入谷戸にはこんな伝説がある。昔、永泉寺近くの田に夜になると鈴の音が聞こえ美しい巫女が姿を現した。巫女は白い衣に緋の袴をひらめかせて舞った。巫女の舞は妖しく美しく、村人は心を奪われ次第に魔性の者ではないかと疑った。 ある日弓の達者な若者が選ばれた。巫女の現れる夜を待ち構えたが村人の心を知ったか巫女は現れなかった。満月の夜、村人は田圃に舞台をこしらえ、豊年祭りの舞を奉納するため集まった。すると鈴の音が聞こえ巫女が忽然と姿を現し舞い始めた。そのとき若者の放った白矢が巫女の胸を射た。村人が駆けよったときには巫女の姿は消えていた。翌朝、村人があたりを捜したところ、田の神を祀った葦の中に年老いた白い狐が、胸に矢を射抜かれ息絶えていた。以来若者が矢を放った所を弓射り谷戸と呼び、これが後に嫁入谷戸に転化したという。
25-1.jpg 嫁入橋を渡ると柚木街道と交差する。柚木街道を横切ると伊丹木谷戸へ入る。伊丹木谷戸と聞けば鬱蒼とした林を想像するが、ここから先はニュータウンとして造成されて地形はすっかり変わってしまっている。谷戸道に入るとすぐ茅葺入母屋造りの鑓水商人小泉家屋敷がある。今も個人の住まいとして使用されているが都有形民族文化財になっている。小泉家の先祖小泉栄一氏は栄華を誇った鑓水の光景をこんな歌に残している。
「浜出しの 荷駄送り出す 糸商の 夜明けの庭の 馬のいななき」
25-2.jpg 小泉家屋敷から先、町田街道の田端まではかつての浜街道はニュータウン化ですっかり
消滅してしまっている。多分浜街道は鑓水中の敷地を通った後、鑓水公園辺りを経て鑓水小山給水所へ向かっていたのであろう。今となってはニュータウンを抜ける車道に架けられた「浜街道歩道橋」の名に在りし日の浜街道の面影を偲ぶことができるだけである。給水所まで来るとそこは尾根緑道(別名戦車道路)の丘陵端の麓に位置する。丘陵端はかつて浜見場と呼ばれ、ここから遥か横浜の海がきらきら光るのが見えたという。
25-3.jpg25-4.jpg 田端から先は所々で旧道を迂回しながらも概ね現町田街道に沿う道筋となる。町田駅前には絹の道碑を確認することができる。川井辺りからは八王子街道に入り、今宿、星川を経て追分で旧東海道に合流する。25-5.jpg追分からは旧東海道に沿って旧芝生村の浅間神社のある浅間下に至る。浅間神社は鑓水商人が横浜に入ったと一息ついたところだ。
 浅間下からは環状1号線を渡って新横浜通りの一筋裏通りの新田間川緑地に入る。緑道は200mばかりで新田間川にぶつかって終わるが、この緑道こそ開港を控えた幕府が開港わずか3か月前から突貫工事で開削した横浜道だ。以降、横浜道を辿って開港場のある関内を目指す。(つづく)


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