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余は如何にして基督信徒となりし乎 №62 [心の小径]

第十章 基督教国の偽りなき印象-帰郷 3

                      内村鑑三

 異教は、基督教国で基督教として通っているものと等しく、道徳を教え、そしてそれの遵守(じゅんしゅ)を我々に説く。それは我々に道を示し、そしてその中を歩むことを我々に命ずる。それ以上ではなく、またそれ以下ではない。ジャッガノート、幼児犠牲、等々は、我々の異教談からはこれを取除こうではないか、なぜなら財神(マモン)礼拝、鰐(わに)の餌食(えじき)にする方法以外の方法による幼児殺害、基督教国のその他の恐ろしい事と迷信とが基督教ではないように、それらは異教ではないからである。
 そういう点では我々は他を判断するに公平寛大であろうではないか。我々は我々の敵にはその最善最強の点で相会したくある。
 余は躊躇せずに言う、基督教は同じことをすると、すなわち、歩むべき道を我々に示すと。じつにそれは他のいかなる宗教にもまさって明白に誤ることなくそうするのである。それには余がしばしば他の信仰において出会う導きの光の鬼火(おにび)的性質はすこしもない。じつに基督教の顕著な一特徴は、光明と暗黒、生命と死との区別のこの鋭さである。しかしいかなる公平な裁判官にであれモーセの十誠と仏陀(ぶつだ)のそれとを比較せしめよ、そうすれば彼は直にその相違は昼と夜の相違のような相違ではないことを知るであろう。仏陀、孔子、その他の『異教の』教師たちの教えた人生の正道は、基督信徒がこれを注意深く研究すれば、何か自分たちの以前の自己満足を恥かしくおもわせるものである。シナ人と日本人とをして彼ら自身の孔子の誠めを守らしめよ、そうすれば諸君はこれら二国民から諸君がヨーロッパやアメリカで有するいかなるそれより立沢な基督教国を作り出すのである。基督教回心者のうち最もすぐれた人々は仏教や儒教の精髄(せいずい)をけっして捨てなかった。我々が基督教を歓迎するのは、それが我々を助けてなおいっそう我々自身の理想のどとくにならしめるからである。ただ熱心党、『リバイバル屋』、見世物好きの宣教師たちのお気に入りが、彼らの以前の礼拝の対象に対する宗教裁判(auto-da-fe)に没頭するにすぎない。『わたしはそれを廃するためではなく、成就するために来たのである』と基督教の創始者は言った。
 基督教が異教よりより以上でありより高くあるのは、それが我々をして律法を守らしめる点にある。それは異教プラス生命である。それによってのみ律法遵守が可能事となる。それは律法の精神である。すべての宗教のうちでそれは内側から働くものである。それは異教が多大の涙をもって探求摸索(もさく)しつつあったものである。それは我々に善を示すのみならず、我々をまっすぐただちに永遠の善それ自身につれて行くことによって我々を善ならしめる。それは我々に道を備えてくれるのみではない、生命そのものをもまた与えるのである、レールとともに機関車をもまた与えるのである。他の宗教に同様のことをするものがあるか、余はいまなお『比較宗教学』の教を乞いたくある。(註)

(註)グラッドストン(The Right Honourable William Ewart Gradstone)の基督教の定義は左のごとし、-『確立した基督教観念による基督教は、借受すべき抽象的教義を我々に提示するものではなく、我々が生命的合体によりて結びつけらるべき生ける神的の人格者を我々に提示するものである。それは罪によって神から断たれた者の神との再結合である、そしてその方法は教訓を教えるという方法ではなく、定められたようにもろもろの賜物と能力とをそれが授けることにより薪生命を賦与するという方法である。』 - ロバート・エルスミアーについての批評から


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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