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コーセーだから №49 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」  10

           (株)コーセーOB  北原 保

南方雄飛に熱中
天の助けで迷いさめる

夢多き時代

 「青年時代というのは、夢多き時代ですね。東洋堂という堅実な会社、人情深い社長や支配人の下で働いていた私でさえ、二度ばかり東洋堂をやめようとしんけんになったことがあるんですよ」
 小林社長はクラーク博士の「少年よ大志を抱け」という言葉を思いうかべる。当時もし小林少年が東洋堂をやめていたら、コーセー化粧品は生まれなかったにちがいない。その少年の夢をかきたてたものは――。
 ちょうど第一次欧州大戦前、東洋堂では香水を南方のシンガポール、ボルネオ、セレベスに輸出していた。青年雑誌には総理大臣だった大隈重信などが「青年よ南方に雄飛せよ」と毎号にわたって青年の血をわきたたせていた。だから南方雄飛は青年の夢、小林少年が南方に興味をもったのも無理はない。かたっぱしから南方の本を読みあさり「南方熱」ニとりつかれた。
 南方に行くといっても現在のようにジェット機ですっ飛んでいくわけじゃない。一生の大事、南方に骨を埋める決心が必要だった。そこで小林少年は母や長兄に「南方雄飛」の手紙をたびたび書き送った。ある日、報知新聞の相談欄に「愛する弟を南方に行かせるか」という見出しが目についた。読んでみると長兄が新聞に投書した相談、「愛する弟」とは自分のことだった。
 その回答は、弟さんは利口でしっかり者のようだが、南方はあなたの弟さんのような人を待っていない。もし弟さんが南方に行くといったら、もう一度いまの会社で10年間必死に仕事してみたらどうか。10年たってまだ南方に行きたい決心があればそういう人を南方は待っています。――と書いてあった。
 「その回答で南方熱は静まりましたが、あの時、南方に行っていたら、第一次大戦で元も子もなくしたでしょうね。人間の運命というのはどこで変わるかわからない」
 小林社長は人間の運命に〝天の助け〟があると信じたくなる。
 二度目は軍隊から除隊したときである。
 小林孝三郎は21才の徴兵検査は甲種合格、近衛歩兵連隊に入隊した。が、除隊のときは第一次大戦の最中だった。当時、日本は大へんな景気、除隊というのに田舎の村長から東洋堂の社長までが出迎えしてくれた。
 「除隊で竹橋を出ると、まるで日本は世界の景気を独占しているようなさわぎでしたよ」という。そのころのウワサをひとつ――。当時、船会社の山下汽船が、大阪の一流料理店に客をまねき、一人前500円の料理を注文した。そのころ500円といったら大へんなもの。料理人が困りに困って、お土産にガラス箱に海水を入れ生きたタイを一人一人に持たせたというのだ。
 当時は小林家の長兄(章治)の醤油や繁昌の一途、除隊した近衛兵は田舎の商売の発展ぶりに目をみはるばかり。そこで長兄から「醤油屋を手伝ってくれ」という話になった。なかがよい長兄のこと、小林家をもり立てるために弟がひとハダぬごうということになった。が、自家営業を手伝うとなると、長年つとめてきた東洋堂をやめなければならない。
 早速小林氏は東洋堂の大先輩の田辺支配人に相談したところ、田辺氏から「小林君がやめるなんて夢にも考えなかった。だが、兄弟で醤油屋をやって、もし失敗したら兄弟でおわりじゃないか。それよりどちらかが成功していれば助けることだってできる」とこんこんとさとされたという。
 「あのころ、根が純情でしたね。困っていれば助けようという気持ちだったんでしょうが、もし兄弟経営で大がかりな醤油屋をやっていたとしたら、第一次大戦後の不況の波にのみこまれていたせしょうね。あの不況で日本中に倒産旋風が吹き荒れたのですからね」
 小林孝三郎が迷いからさめて、自分の運命を切り開いたのは24才のときだった。
                                              (日本工業新聞 昭和44年10月17日付)

49近衛歩兵連隊に入隊した小林青年(右)1920年.jpg
南方雄飛を夢見ていたころの小林青年(右端)
49南方雄飛を夢見ていたころの小林青年(右端).jpg
近衛歩兵連隊に入隊した小林青年(右端1920年)

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