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浜田山通信 №239 [雑木林の四季]

お花見と新元号

             ジャーナリスト  野村勝美

 3月末は、お花見と新元号の話題で持ちきりだった。桜の花は昔から日本人は大好きで、一日もお花見に行かなかったらよほどのへそ曲がりか日本嫌いになる。もっとも私のように、教科書の
 サイタ サイタ サクラ ガ サイタ
 ススメ ススメ ヘイタイ ススメ
で育った人間は、のちに”散華”なんていう潔く死のうという言葉をおぼえさせられたことなどもあって、ただきれいだなだけではすまないところがある。
 本居宣長の「しきしまの大和心をひと問はば 朝日ににほふ山桜ばな」なども軍国主義に利用されたのだが、私には宣長と山桜にはもうひとつの思い出がある。もう50年も昔、私は恩師の戸井田道三先生と伊勢路の旅に出た。雑誌の新年号なのでお伊勢さんから始めるかくらいのいいかげんな気持ちだったが、なに戸井田先生には本居宣長を書くという腹づもりがあった。というのも、当時、文学評論の第一人者小林秀雄が雑誌「新潮」に10年間にわたる長期連載「本居宣長」」を書いていたからである。連載中から大評判になった。それも小林は宣長の遺書から書き始めた。その遺書は自分が死んだあとの葬式やお墓の作り方を細かに記してあり、誰しもがどうして?と思った。いきなり読者を宣長の世界に引っ張り込むには見事な手法であった。
 それで私は先生に連れられて山室山の頂上近くにある墓地に出かけることになる。先生は若い時から結核で山登りなどしたことがなく、私に「宣長の指図通りの墓地になっているか見てきてくれ」といわれた。けっこう高いところだったが、私としても先生をふもとに一人待たせては悪いと思い、殆どとんぼ返りで墓地を往復した。墓標の配置や大きさなどは記録どおりだったが、墓地の傍らの山桜はヒョロヒョロとした若木だった。二代目か三代目を地元の人が植えたのだろう。この桜も今頃はみごとに成長して簡素な墓地に彩りをそえていることだろう。
 私はこれをきっかけに小林秀雄の大著も読んだし、のちに友人と研究会もやったが、細かいことは忘れてしまった。いい時代だった。
 新元号というのか新年号というのか、どちらでもよいが、政府が決めて世界中の国へ通知するのだという。年号なんて中国や韓国でも使っていないし、だいたいが西暦だから通知された方も迷惑だろう。外交文書などどうするのだろう。元号が天皇一代一元になったのは明治維新からだし、明治の前の孝明天皇など弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治と6回も年号をかえている。安政の大獄や万延元年のフットボール(大江健三郎の小説)は知っている人は知っているが、その時の天皇が孝明だったとはあまり知らないだろう。昭和だって戦前と戦後を同じ時代にしてしまうのは乱暴だろう。日本という国は戦争に勝っても負けてもいい国だと自分から思い、外国の人にも思ってほしいらしい。

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