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医史跡を巡る旅 №55 [雑木林の四季]

「博愛精神のルーツをたどる・日赤の産声」

                            保健衛生監視員  小川 優

日本赤十字社創設の最大の功績者は、佐野常民と大給恒の二人でしょう。

「日本赤十字社創立二十五年祝典記念絵葉書」
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「日本赤十字社創立二十五年祝典記念絵葉書」

これは日本赤十字社創立二十五年祝典記念として発行された絵葉書です。日本赤十字創設にかかわった二人が描かれています。

「佐野常民墓」
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「佐野常民墓」 ~東京都港区南青山 青山霊園

文政6年(1823)、佐賀藩士の五男坊として肥後国佐賀県早津村、現佐賀市に生まれる。天保2年(1831)8歳の時、藩医佐野家の養子となる。藩校弘道館に入学し学才を発揮、江戸に出て古河侗庵に学ぶ。一度佐賀に戻り弘道館で再び学び、佐野家の養女と結婚。その後、京都、大坂や江戸で遊学、嘉永元年(1848)大阪では緒方洪庵の適塾、華岡青洲の春林軒塾、さらには嘉永2年(1849)伊東玄朴の象先堂塾で学び蘭学、医学などの学識を広める。嘉永6年(1853)に佐賀に戻り精煉方主任を務め、大砲の鋳造、蒸気機関の試作など藩の近代化の中心となり、安政2年(1855)には長崎の海軍伝習所に参加、佐賀鍋島藩の海軍創設に関わる。慶応3年(1867)、藩命でパリ万国博覧会参加のため渡欧、赤十字活動を知る。帰国したときには幕藩体制が崩壊した後で、新政府のもとでは当初海軍創設に携わるが、やがて罷免。その後は博覧会御用掛として近代化に貢献し、明治6年ウィーン万博にも派遣される。明治10年西南戦争の勃発により、敵味方の区別のない戦傷者救護のために活動、戦後も日本赤十字社創設のために尽力する。博愛社総副長、赤十字社社長の傍ら、大蔵卿(明治13年)、元老院議長(明治15年)、枢密顧問官(明治21年)、農商務大臣(明治25年)を歴任する。明治28年(1895)伯爵に叙され、明治35年(1902)、東京麹町区の自宅にて80歳で死去。

明治10年(1877)、佐野常民の奔走によって西南戦争の戦火の中で産声を上げ、とにもかくにも戦場での傷病者救護の実績は残した日本赤十字社の前身、博愛社。しかし一方で、新政府要人への博愛思想浸透工作は思うように進まず、戦争の終結とともに、博愛社の存続そのものも含めて、課題に直面します。
博愛社本社は当初、麹町区飯田橋の櫻井忠興邸内に置かれていました。佐野常民の博愛思想に賛同した、旧奥殿藩藩主であり元老院議官であった大給恒は東京に留まり、皇族や元老院議官など旧藩主を中心に、協力者を集めることに専念します。そうして得られた協力者の一人が、旧尼崎藩藩主、櫻井忠興でした。櫻井忠興の協力により、邸内に博愛社本部がおかれることとなったのです。

「日本赤十字社発祥地」
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「日本赤十字社発祥地」 ~東京都千代田区飯田橋 東京逓信病院

飯田橋駅から外堀沿いにしばらく歩くと、東京逓信病院があります。民営化される前の郵政省、戦前は逓信省と呼ばれていまして、その職員のための病院でした。その前は森鴎外こと、陸軍軍医森林太郎が学校長を務めた陸軍軍医学校があったところです。さらにその前は、櫻井忠興の屋敷でした。

「東京逓信病院」
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「東京逓信病院」 ~東京都千代田区飯田橋 東京逓信病院

病院前の駐車場と道路を隔てている植栽の中に、千代田区教育委員会の設置した日本赤十字社発祥地の立て看板がありました。平成31年3月現在で「ありました」と過去形なのは、しばらく前からその看板が見当たらなくなったからです。看板の文字が薄れてきたため建て替えのための一時撤去保管か、何らかの理由で撤去されたのかはわかりません。

博愛社は西南戦争中の明治10年5月1日に佐野常民、大給恒により創設されました。当時の社則は以下のようなものです。

第一条 本社の目的は、戦場の創者を救ふにあり。一切の戦争は會つて是れに関せず。
第二条 本社の資本金は、社員の出資と、有志者の寄付金とより成る。
第三条 本社使用する所の医員看護婦等は、衣上に特別の標章を着し、以て遠方より識別するに便りす。
第四条 敵人傷者と誰も、救得べきものは是れを収むべし。
第五条 官府の法則に謹遵するは勿論、進退共に陸海軍医長官の指揮を奉ず。

ちなみに第二条にいう標章ですが、当時はまだジュネーブ条約を批准しておらず、またキリスト教への警戒もあってか赤十字を用いずに、赤丸の下に一文字を描きました。

「博愛社発祥縁起の地 碑」
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「博愛社発祥縁起の地 碑」 ~熊本県玉名郡玉東町 正念寺

熊本県玉名郡にある西南戦争時の救護所、正念寺に建てられている「博愛社発祥縁起の地 碑」上部に描かれているのが、その標章です。
赤十字活動の中心は確かに戦地における傷病者救護にありましたが、その思想の普及に努め、また戦時ばかりでなく、地震や大火、風水害や噴火など災害発生時への即応体制を整えるためにも、平時からの活動は欠かせません。西南戦争後、本部は芝公園地内の高松察民寮に移しますが、組織も整わず、皇族からの下賜金はあったものの活動を支えていくだけの資金の確保にも苦労する状態が続きます。
西南戦争終結の翌年、明治11年1月に、総長の小松宮彰仁親王の臨席をもって執り行われた社員総会では、「平時に在りて、講究準備せざる可らざる」旨、本社を永遠維持することが決められ、組織と規定づくりや、資金調達の方法が定められます。

「小松宮彰仁親王銅像」
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「小松宮彰仁親王銅像」 ~東京都台東区上野公園

彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政五年(一八五八)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(一八六七)勅命により二十二歳で還俗、東伏見宮嘉彰親王と改称した。同四年一月の鳥羽・伏見の戦に、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。明治十年五月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、九月その総長に就任した。同十五年には、小松宮彰仁親王と改称。同二十年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同三十六年一月十八日、五十八歳で没。(台東区教育委員会ホームページより)

上野公園のなか、動物園正門前に小松宮彰仁親王の騎馬像があります。小松宮彰仁親王は博愛社の総長として、また日本赤十字社に改組されてからは初代総裁を務めました。

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