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論語 №71 [心の小径]

二二〇 子のたまわく、出でてはすなわち公卿(こうけい)に事(つか)え、入りてはすなわち父兄に事え、喪事(そうじ)敢(あ)えて勉めずんばあらず、酒の困(みだ)れを為さず。何ぞわれにあらんや。

                 法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「朝廷に出ては上官に服従し、家庭に入っては父母兄姉に奉仕し、葬儀や服喪にはできるだけを尽さぬということなく、酒は飲むが乱酔(らんすい)するまでに至らぬ。まずそのくらいのところで、ほかには何のとりえもないわしじゃ。」

 これは、第一四九章と同様、孔子様の謙遜と自信との言葉だ。前の場合にも申したとおり、「何ぞわれにあらんや」を「以上のこともわしにはできない」の意味に解する説があるが、この場合には「酒の困れを為さず」が変なことになる。第二四三章に「量(はかり)なし乱に及ば」ざる孔子様の酒の上のよかったことが出ているではないか。

二二一 子、川の上(ほとり)にありてのたまわく、逝(ゆ)くものは斯くの如きかな、昼夜を舎(お)かず。

 孔子様が川ばたにたたずんで歎息されるよう、「人間万事過ぎ去って帰らぬこと、川水の昼となく夜となく流れてやまぬようじゃのう。」

 道は流れて絶ゆることなし、学問もすべからく間断(かんだん)なかるべし、の教訓と解する説もあるが、それでは詩的でない。本章はいわゆる「川上歎(たん)の章」であって、安井息軒(そっけん)の左の説明が正に図星だ。「春秋の末、天下大いに乱れ、人その生に聊(やすん)ぜず。孔子、明君を輔(たす)けて以てこれを拯(すく)わんと欲す、しかも世の主、用うる能わず、歳月流るるが如く、孔子も亦すでに老いぬ。たまたま川流(せんりゅう)の一たび去って反らざるを見る。ここにおいてか喟然(きぜん)として以て歎じ、この言を発せるなり。」

二二二 子のたまわく、われ未だ徳を好むこと色を好むが如くなる者見ず。

 孔子様がおっしゃるよう、「色を好むごとく熱烈に徳を好む者を、わしはまだ見たことがない。遺憾(いかん)なことじゃ。」

 本章の「色」も、前の「賢(けん)を賢として色に易(たと)え」(七)の場合と同じく、婦人の容色である。さりとてまた「有徳者を好むこと美人を好む如くなる者を見ず」と解するのも、あまりに直説法過ぎる。「色」を美人と見るにしても、「徳」は徳そのものとしておく方がよい。

二二三 子のたまわく、譬(たと)えば山を為(つく)るが如し。未だ成らざること一簣(いっき)なるも、止むはわが止むなり。譬えば地を平らかにするが如し。一簣を覆すと雖も、進むはわが往(ゆ)くなり。

 孔子様がおっしゃるよう、「たとえば山を築く場合に、もうひとモッコというところで山が出来上がらないのは、誰のせいでもない自分がやめたのじゃ。また、たとえば地ならしをする場合に、たったひとモッコあけただけでも、それだけ自分で仕事をはかどらせたのじゃ。」

 学問修養についての言葉だが、万事にあてはまる。それからこれが出たのか、これからそれが出たのか、議論があるが、「九仞(きゅうじん)の功を一簣に虧(か)く」という諺がある。

『新薬論語』 講談社学術文庫

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