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余は如何にして基督信徒となりし乎 №61 [心の小径]

第十章 基督教国の偽りなき印象—帰郷 2

                     内村鑑三

 基督教国の正しい評価を為すに当って、我々が何よりまず、純粋単純な基督教と、その教授たちによって装飾され教義化された基督教との間に、厳格な区別を設けることは必要かくべからざることである。余はこの世代の正気(しょうき)の人にして敢て基背教そのものを悪く言う者は一人もないと信ずる。余の手に入ったすべての懐疑的(かいぎてき)文学を読んで後に、余が到達した緒論は、ナザレのイエスは彼の名をもって唱(とな)えられている人々に対して為されたあらゆる激しい攻撃ののちに依然として一指も触れられずにいるということであった。もし基督教が余がいまそうであると信じている通りのものであるならば、それはヒマラヤそのもののように確固不動である。それを攻撃する者は、攻撃して自分自身に不利を招くのである。馬鹿者でなくて誰が敢て岩に向って突進するか。
   或る人はなるほど自分が基督教であると想像するものに向って突進する、だがそれはじつは基督教でも何でもなくて或る不真実な信徒たちの建てたそのものの上部建築なのである、彼らは「岩」はそれだけでは「時」のあらゆる消耗磨滅に堪えることはできないと考えてそれを神殿、伽藍(がらん)、教会、教義、三十九箇信条、その他の可燃性の構造物をもって蔽(おお)ったのである、そしてこの世の曇のうちには、そういうものが可燃性であることを知ってそれらに火を放ち、その炎上を喜び、「岩」そのものもまた火焔の中に消滅してしまっと考えるものがある。見よ、「岩」はそこに存在している、『移り行く世にも変らで立ちて』。
 しかし何が基督教であるか。確かに聖書そのものではない、たとえその大部分が、また
おそらくその精髄(せいずい)が、その中に含まれているにしても。またそれは一時の急場に間に合わすために人間の作成した一聯の信仰箇条でもありえない。じつに我々はそれが何であるかよりもそれが何でないかをかをより多く知っているのである。
 我々は基督教は真理であると言う。しかしそれは定義し得べからざるものを他の定義し得べからざるものをもって定義しているのである。『真理とは何ぞや』と、ロマ人ビラトやその他の不誠実な人々によって問われている。真理は生命のように定義するに最も困難である。しかり不可能である。そしてこの機械的世紀はそれらの定義不可能性の故をもって両者を疑い始始めたのである。ビシャー、トレヴィラーヌス、ベクラール、ハクスレイ、スペンサー、へッケル、各自自分自身の生命の定義をもっている、しかしすべて不満足である。『活動における組織』と一人は言う、『死に抵抗する勢力の総和』と他の一人は言う。しかし我々はそれがそれ以上であることを知っている。生命の真の知識はそれを生きることによってのみうまれる。解剖ナイフと顕微鏡はその機制を示すにすぎない。-真理がそうである。我々はそれを守ることによってのみそれを知るにいたるのである。屁理屈(へりくつ)、詮議(せんぎ)立て、こじつけはそれをより少なく真ならしめるにすぎない。真理は、誤る余地なく堂々と、存在している、そして我々はただ我々自身の方からそこに行かなければならないのであり、それを我々の方に呼び寄せてはならない。真理を定義しようという試みそれ自体が、我々自身の愚鈍(ぐどん)を示すのである、なんとなれば無限の宇宙のほかに何が真理を定義する(de-fine)すなわち限定する(li-mit)、ことができるか。それゆえ我々は、単に我々自身の愚鈍を隠す目的のためにも、真理の定義をあきらめるであろう。
 そのようにして余は基督教の定義不可能性は、その非実在の、いわんやそのごまかしの、証拠でないことを知るようになった。余がその教に一致すればするほどそれが余にいっそうすぐれたものとなるというその事実が、無限の真理そのものとのその密接な関係を示すのである。余は基督教が他の諸宗教にまったく関係のないものでないことを知っている。それは『十大宗教』の一つである、そして我々はある人々のように、他の一切を貶(けな)してそれを有つ価値のある唯一の宗教と見せることはしないであろう。しかし余にはそれは余の親しく知っているいかなる宗教よりもすぐれている、はるかにすぐれている。すくなくとも余の育てられた宗教よりはより完全である、そしていま『比較宗教学』について講義されてきたことをすべて精査して後にも、余は未だそれ以上に完全なものを考えることはできない。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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