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雑記帳2019-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-3-15
◆鎌倉街道、早春の色に染まる今回は京王線聖蹟桜ヶ丘から小田急線永山まで。

民道の鎌倉街道は、東京には西から、上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)の3種のルートがあることを知ってから、多摩の住民としてそのうちの上道を訪ねて2回目です。今回は多摩市を歩きました。(山あり、谷あり、多摩市は広い!)
鎌倉街道は成り立ちの性格から、わき目もすらずにまっしぐら、山も谷も迂回することなく進むのが特徴です。この辺りは、そうした鎌倉古道が残っている貴重な地域です。

聖蹟桜ヶ丘駅を出発して石畳のある住宅街を歩くうち、木立の間に朱塗りの社が見えてきました。小野神社です。創建は紀元前531年と伝えられ、公式記録としては8世紀にその名があります。平安中期に編纂された「延喜式」によると、武蔵国総社である大國魂神社の一之宮とされ、崇敬を集めました。

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都から赴任してきた国司が国の平安を祈る神社は武蔵国には六つありましたが、まず一番に出向くのが一之宮で、それが小野神社だったというわけです。
六社は、小野神社につづいて、あきる野市の二宮神社、さいたま市大宮の氷川神社、秩父市の秩父神社、さいたま県金川町の金鑚神社、横浜市の杉山神社を指します。

度重なる戦乱や多摩川の氾濫を受けて衰退した時期もありましたが、江戸時代になり、徳川秀忠によって再興されました。慶安元年(1648年)には十五石の朱印も与えられ、以後歴代の徳川将軍に厚く崇敬されたということです。
大正15年、火災で焼失、現在の建物は昭和2年に再建されたものです。
拝殿と本殿がわかれていて、しかも少し離れているのは仏教思想が入ってくる以前のものであることを表しています。また、本殿のカーブした屋根の長さが前後で違う(前のほうが長い)という流れ造りであることなど、随所に古社の歴史を伝えています。

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拝殿
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本殿

圧巻は隋神門です。
朱雀こそないものの、玄武に白虎、青龍の三獣がそろっています。
唐獅子牡丹に兎、風神雷神もいれば、龍も水に住む龍だけでなく、空に住む飛龍まで、なかなか見ごたえがあります。
風神雷神はといえば、雷神の手の指が古式にのっとって3本であったり、それぞれが親子とおぼしき一対になっていたり、昭和初期の再建ながら、非常に凝った造りになっているのです。

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隋伸門の額の下には龍の彫り物
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雷神の親子?(上が子らしい)

小野神社から5分ほど歩いて多摩川の土手にでると、関戸橋に平行して京王線が多摩川を渡っているのが見えます。このあたりが関戸古戦場です。
1333年5月15日、新田義貞の軍勢が幕府軍に敗れて敗退した分倍河原の合戦の翌日、態勢を立て直した新田軍は多摩川を超えて幕府軍を攻撃します。幕府軍は総崩れとなり、5月22日の鎌倉幕府滅亡へとむかうのです。

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このあたりが関戸古戦場

関戸は関所に戸を立てたことから生まれた地名です。
多摩川の支流、大栗川が多摩川に合流する地点は昔、交通の難所でした。鎌倉幕府はそこに関所(霞ノ関)をもうけたのです。
関戸合戦では多くの鎌倉武士が命を落としました。関戸5丁目に「関戸古戦場跡」の表札があります。そのすぐ近くの関戸観音寺は、合戦の有縁無縁の精霊の位牌を祀って、新田、鎌倉両軍の供養も行っています。

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関戸観音寺

真言宗のこの寺は1192年の創建。ご住職が本堂にある寺自慢の曼荼羅の説明をしてくれました。
人が死んで巡る地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道を、本地垂迹を取り入れて衆生にわかりやすく絵図にした曼荼羅です。

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熊野曼荼羅
境内には石仏の六観音像があります。六道に苦しむ衆生を救済するという六地蔵は、多くのお寺にあってなじみのあるものですが、地蔵ではなく観音は珍しいということです。

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石仏の六観音

関戸観音寺を出て再び街道を進むと、ほどなく熊野神社です。
昭和30年代に神社の参道で、16箇所の丸柱の痕跡が発掘されました。これが霞ノ関の南側の木戸柵だと考えられています。現在、発見された柱穴上に木材を立てて目印にしてあります。

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熊野神社
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関所の木戸作跡を示す木材の目印

ちなみに、幕府が倒れたあとも関所は残りました。
管理の手は鎌倉幕府から鶴岡八幡宮、北条氏へと移り、秀吉によって廃止されるまで続きました。
中世の関所は通行人からお金を取ることが目的で、しかも任意の個人が設けることができたのです。廃止されるまで摂津湊から京都の間には、なんと、48もの関所があったということです。

多摩地域では低山の尾根と尾根の間の窪地を谷戸(やと)と呼びます。
人々は谷戸に田を引き、集落を営みました。鎌倉街道はその谷戸と谷戸をつないでつくられたので、旅人は上り下りの多い坂道を歩くことになりました。
現在もその面影を残す道が原峰公園にあります。
入口は尾根筋にあたる現在の住宅街にあるのですが、公園内へはまるで谷底へくだるように降りて行かなくてななりません。さらに谷戸を横目にしながら今度は林の坂道を登っていくと、コミュニティセンターのある街道に出ます。そこから通りをだらだら下れば市役所はすぐです。
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谷に向かって降りていく
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谷底にかかる古びた木製の橋はなかなか趣があります。

市役所の前にはかって街道がにぎわっていたことを示す古市場の標識がたっています。
北条氏が月に6日の六斎市を立てた場所でした。

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古市場跡

市役所からくだってぶつかった大通りや乞田川はさしずめ谷底、ここから永山に向かう道はまた上りの坂道です。
小田急線永山駅から20分ほどのところにある大福寺は弥勒菩薩の寺です。本堂のかたわらにある弥勒菩薩の像は、左手に宝塔のある蓮華を持ち、右手は中指をまげて、禅定にはいって姿をみせています。普通、弥勒菩薩の持つ蓮は花そのものか蕾なので、この姿は非常に珍しいのだそうです。

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大福寺本堂
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弥勒菩薩像

多摩ニュータウンが造成される際、貝取村で個々に祀られていた神社も取り壊されることになりました。その、吾妻神社・八幡宮・牛頭(ごず)天王社の3柱を集めて合祀したのが貝取神社です。
集落に災いをもたらす者が入らないよう入口を見張る牛頭天王は、実は神道の神様ではありません。そのほか、神社なのに、境内には不動明王の石仏があります。さらに、鳥居は両部鳥居になっており、神仏習合の名残がいくつも見られます。新しい街ができても古くからあるコミュニティを大切にしたいとの思いがあったのかもしれません。

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貝取神社の牛頭天王社
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鳥居の足が両部鳥居になっている。

お昼は永山駅そばの「梅の花」で梅ランチをいただきました。

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地方から上京した誰もが東京は坂の多い街だと驚きますが、多摩ニュータウンの坂道はその比ではありません。
貝取山や笛吹峠の地名もそのままに、昭和40年代の開発からまだ50年余の、丘陵の地形を残した町は、広さもさることながら、とにかく坂ばかり。この日、万歩計は17,000歩を示し、翌日はさすがに足がこわばっていました。


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