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医史跡を巡る旅 №54 [雑木林の四季]

「博愛精神のルーツをたどる・高松凌雲」

                  保険衛生監視員  小川 優

西南戦争が日本における赤十字活動の始まりであったというお話は、ちょうど1年前の本稿№35、№36でふれました。実はそれ以前、日本初の近代戦であり、明治維新につながった戊辰戦争の時すでにその萌芽があった、というのが今回のお話です。

鳥羽伏見以降、彰義隊の戦い、会津など東北諸藩における戦いと、幕府軍は敗退を続け、とうとう函館に追い詰められます。後のない旧幕軍にとって函館五稜郭は、文字通り最後の砦。熾烈な戦いが繰り広げられます。
旧幕軍の顔ぶれは、榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、そして新選組の土方歳三らです。そしてその中に、幕府の急を聞いて急ぎ留学先から帰国した医師の高松凌雲がいました。

「高松凌雲先生誕生之地碑」

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「高松凌雲先生誕生之地碑」 ~福岡県小郡市古飯
高松凌雲は天保7年(1836)、筑後国古飯村、現在の福岡県小郡市古飯、庄屋高松家の三男として生まれます。生家の跡には立派な顕彰碑が建てられています。

「高松凌雲先生誕生之地碑 説明板」

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「高松凌雲先生誕生之地碑 説明板」 ~福岡県小郡市古飯
20歳のときに久留米藩士の養子となりますが、文久元年(1861)22歳の時に、兄を頼って江戸に出て柴田方庵、次いで幕府奥医師であった石川桜所に師事します。また、桜所の許しを得て、緒方洪庵の大阪適塾にも遊学、さらに元治元年(1864)からは、横浜に居留していた、ローマ字考案者の一人としても有名なヘボンの元で学びます。

「石川桜所墓」

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「石川桜所墓」 ~東京都台東区谷中 谷中霊園
文政8年(1826)、陸奥国登米郡桜庭村、現在の宮城県登米市に生まれる。14歳の頃に江戸に出て、伊東玄朴に師事。のちに師、伊東玄朴や大槻俊斎らとともに、東大医学部へと連なるお玉が池種痘所の設立に関わる。仙台藩の医師を勤めていたが、文久2年(1862)将軍慶喜の奥医師に抜擢され、法眼に叙せられる。戊辰戦争では将軍に付き添い転戦するが、大政奉還に伴い、蟄居する徳川慶喜に従って水戸に下り、次いで故郷仙台松島に戻り開業するが、旧幕指導者の一人として投獄されるが、明治4年(1871年)赦免の上、明治政府に乞われて東京に戻り、軍医制度の制定に尽力、陸軍軍医監などを勤める。明治15年(1882)、死去。

高松凌雲は師、石川桜所の推薦もあってか慶応元年(1867)に一橋家侍医、徳川慶喜の奥詰医師となり、慶応3年の徳川昭武(慶喜の弟)の欧州視察団に加わって渡欧します。一行の目的はパリ万国博覧会の視察でしたが、凌雲はパリで多くの知識を吸収します。中でも「神の家」と呼ばれる市民に無料で医療を提供する施設を見たり、1864年に条約発効していた赤十字活動を知ったことは、その後の凌雲の生涯に大きな影響を与えました。戊辰戦争の勃発を知り急遽帰国、しかし史実の通り幕軍は連敗、凌雲の帰国時には大勢は決していました。徳川に大恩を感じる彼は、幕臣を中心として北海道に共和国を作らんとする榎本武揚らに合流、函館の地に赴きます。
旧幕軍は五稜郭を占領、これを本拠地として建国を宣言しますが、これを認めない新政府軍は圧倒的武力を以て攻め寄せます。
高松凌雲は五稜郭から少し離れた、函館山の斜面にあった函館奉行所医学所を野戦病院とし、責任者となります。諸藩、浪士の混成部隊であった旧幕軍、そして敵とはいえ、同じ日ノ本の国民、故郷を遠く離れ、戦で傷つき苦しむ姿は皆同じ、凌雲の頭にヨーロッパで見聞きした赤十字活動のことがよぎったに違いありません。函館病院では、敵味方の区別なく治療を行いました。そして旧幕軍の敗色濃くなり、病院にも新政府軍が押し寄せます。この時薩軍隊長を説き伏せ、収容している傷病者の安全を確約させます。また新政府軍からの降伏勧告の文書を榎本武揚に届けるなど、戦闘の早期終結にも貢献します。

「高松凌雲君追弔碑」

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「高松凌雲君追弔碑」 ~東京都荒川区南千住 円通寺境内
南千住の円通寺には、上野の戦いで斃れた彰義隊士らが供養されています。その縁で榎本や大鳥圭介ら旧幕軍関係者の供養碑や、追悼碑が建立されています。その中の一つが、高松凌雲追弔費です。

「上野寛永寺黒門」

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「上野寛永寺黒門」 ~東京都荒川区南千住 円通寺境内
円通寺のこれらの旧幕軍関係者の墓碑を守るように、上野の戦い当時の上野寛永寺の黒門が移設されています。おびただしい弾痕が穿かれており、上野の戦いの激しさを偲ばせます。

旧幕軍降伏後、凌雲も新政府に逆らった逆賊として、縛につきます。やがて許され、西洋医学を習得した貴重な医師として、手のひらを返したかのように官職に就くように新政府から誘いがありましたが、これらをすべて断り、一市井の医師として浅草で開業します。
ところが平和な世になっても、貧しい人々が医療の恩恵にあずかることは難しいままでした。凌雲はパリで見た「神の家」を思い出します。明治12年(1879)に同志を募り、同愛社を設立します。社員の医師は、一定数の貧困患者を無料で診察するものとして、施療券は区役所や町内世話人が交付しました。一方で慈善社員を募集し、治療費用等の資金調達を行いました。また皇室の下賜金や、貴族や著名人からの寄付も募り、運営資金に充てます。こうして1906年までに施療患者数は37,573人、延人数659,168人に上ったとされます。

「宇山道朔墓」

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「宇山道朔墓」 ~東京都台東区谷中 谷中霊園
同愛社事業に参加した医師の一人です。天保7年、医家である宇山家に生まれ、神田で開業。同愛社創立に関わり、その後も同事業に尽力する。明治38年(1905)没。

「高松凌雲墓」

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「高松凌雲墓」 ~東京都台東区谷中 谷中霊園
凌雲は明治25年(1892)、同愛社の社長を榎本に譲ります。そして大正5年(1916)、東京の自宅で81歳の波乱に満ちた長い生涯を閉じます。忠義を貫き、博愛精神にその身を投じたまさにラスト・サムライともいうべき一生でした。


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