SSブログ

立川陸軍飛行場と日本・アジア №175 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 編成替えで、第五連隊に戦闘機隊   東京音頭が大流行

             近現代史研究家  楢崎茂彌
 
  満州派遣部隊が立川に帰還した8月1日、飛行第五連隊が編成替えになりました。
これに先だって7月20日には第五連隊長が交代します。連隊長木下大佐は第七連隊(静岡県浜松市三方原・爆撃175-1.jpg機隊)に転属となり、飛行場に整列した将兵を前に“兵備改善に直面し画時代的の転替を前にして諸君と袂別するが、今後益々非常時の軍人として本分を尽くされたい”と挨拶をします。新連隊長は航空本部技術部第一課長から栄転した田中毅一中佐で、8月1日付けで大佐に昇進します。
  下士官、兵が転入してくる前に、7月24日に先ず戦闘機が滋賀県八日市の飛行第三連隊(戦闘機・偵察機隊)から空中輸送されてきます。「東京日日新聞・府下版」(1933.7.25)は“新鋭の九十一式戦闘機○○台は午前10時、甲式四型戦闘機○○台は午後2時40分に立川陸軍飛行場に到着、第三格納庫に納まった”と報じています。
  編成替え当日と翌日、立川駅は雑踏を極めます。「東京日日新聞・府下版」(1933.8.1)は、その様子を次のように報じています。“今明日の転出入は既報より変更されて次の通りである▲1日午前七時五分兵○○名立川駅出発飛行第七連隊へ△同時刻満州より兵○○名(別項)立川駅着凱旋▲午前十一時二十三分下士○○名、兵○○○名立川駅出発飛行第三連隊へ△二日午前八時三分下士○○名、兵○○○名立川駅着第三連隊より△(時間不明)将校○○名立川駅着飛行三連隊より”。軍事機密のせいか人員数に伏せ字が多くて、動きがよく分かりませんね。
175-2.jpg ところが7月20日の同紙は、人数を具体的に報じています。記事によると第三連隊に転出する下士官は16名・兵は165名、第七連隊に転出するのは兵13名で、前回に紹介した満州への交替部隊については“兵○○○名立川発満州へ”と伏せ字です。転出飛行機は乙式偵察機6台が飛行第三連隊へ空中輸送されます。転入については“下士官二十二名、兵百五十名が八月二日午前八時立川駅着で飛行第三連隊より、転入飛行機甲式四型戦闘機十二台(二十七日)、九十一式戦闘機十三台(二十四日十台、二十九日三台)飛行三連隊より空中輸送”。戦闘機2中隊で25台だから、一中隊は兵員80名前後、戦闘機12機前後であることがわかります。
  8月1日の「東京日日新聞・府下版」は”戦闘隊を迎えて けふから新陣容 凱旋・転出入に大忙多忙「われ等の飛五」拡充“と見出しを打って次のように報じています。“立川飛行第五連隊は、今一日を期して編成替えとなり創立以来十一年偵察隊として輝いた歴史を捨てて、戦闘、偵察併用機隊として新陣容を構成する”(「東京日日新聞・府下版」1933.8.1)。事実はこの記事とは少し違っていて、連載NO78に書いたように、宇垣軍縮により、大正14(1925)年に、第五連隊の偵察第三中隊が戦闘中隊に編成替えになったことがあります。ところがこの戦闘隊は昭和2(1927)年には、廃止となり再び偵察第三中隊に戻っています。改編の理由は“各飛行連隊は各一分科であることが、教育訓練、補給、補充等に便利なことが明らかであり”(戦史叢書52「陸軍航空の軍備と運用1」朝雲新聞社1971年刊)だったようで、同時に飛行第三連隊も改編されています。
  では今回の編成替えの理由は何だったのでしょうか。「陸軍航空兵器の軍備と運用 1」は満州事変がその大きな要因だと説明しています。満州事変での航空作戦は陸軍航空の初陣と言えるものですが、当時の中国側の航空戦力は弱体で空中戦闘などが出現しませんでした。しかし、演習では味わえない実践的な体験をして、航空部隊の編成、装備、教育補充、補給修理、地上勤務、指揮組織などに関する多くの教訓を得たとしています。満州事変により航空の価値が陸軍全体に認識され、陸軍航空拡充の契機になったと評価しています。
  現実的な問題としては、3年前の昭和5(1930)年に完了した陸軍航空26個中隊軍備は、満州事変により、内地から9個飛行中隊基幹の兵力が満州に派遣され(第五連隊は連隊長まで関東軍に編入された)、欠数が生じています。この事態に対応して陸軍は、この年(昭和8年)に「時局兵備改善計画」を策定し、26中隊を35中隊に増強すること、連隊の分科を整理すること、関東軍飛行隊を増強すること、機種改編の促進などを行います。この方針に沿って第一連隊から第八連隊の改編が進められ、第五連隊の改編はこの一環でした。因みに下士官、兵隊と戦闘機を立川に送り込んだ第三連隊は、偵察3中隊に編成替えとなっています。こうして陸軍は次の戦争に備えていくわけです。
 
  東京音頭が大流行
  第五連隊の改編が行われた8月1日、東京の芝公園(東京タワーがある公園)では。“東京音頭踊り”と名付けた盆踊り大会(主催時事新報社、東京市後援)が開催されました。このあと、東京市内各地の公園では東京音頭大会が繰り広げられます。東京音頭が大流行した背景には、前年の“大東京”の誕生があります。
  連載NO.168に、並木さんの”東京市のボロ門“のことを書きましたが、1932年に東京市が35区に拡大し、面積では世界5番目、人口は日本第2位の大阪市の倍を優に超える551万人の”大東京”となりました(4年後に千歳・砧村が世田谷区に編入されて、人口はニューヨークに次ぐ世界第2位となります)。日比谷公園の中にある松本楼の当時の社長小坂光雄氏の証言によると、大東京が誕生した昭和7(1932)年、丸の内の旦那衆が集って、景気づけに都会の盆踊りをやろうという話がでます。そこでビクターに依頼して、西条八十作詞、中山晋平作曲による“丸の内音頭”が作られました(「証言 私の昭和史1」旺文社文庫1984刊)。この時期は、北原白秋などが中心となった新民謡ブームが続いており、“丸の内音頭”もこのブームの一環です。NO85で紹介した“立川小唄”もこの新民謡ブームにのったものでした。
  一昨年、豊泉喜一さんや中野隆右さんなどの有志により、立川小唄の記念碑が元・立川陸軍飛行場営門のそばの公園の中に建てられました。歌詞の脇に“立川小唄記念碑建立由来”が刻んであります。何度か訪ねたことはあるのですが、昨日、初めてこの由来を読んでみると、書き始めが“大正11年(1923年)立川に陸軍飛行場が開設。”となっています。えっ、大正11年は1922年ですよね、歌詞の方に気をとられてウッカリしたのでしょうが、このままではまずい…。
175-3.jpg  それはさておき、野口雨情、三木露風、中山晋平などもかかわった”新民謡運動”については、『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(中野敏男著・NHKブックス2012年刊)が、とても詳細な考察を加えています。
  ビクターは“丸の内音頭”が好評を博したので、同じメロディーを使い“大東京”をイメージさせる歌詞に変えた“東京音頭”を発表、レコードは100万から120万枚売れる大ヒットとなり(当時のビクター営業部員八木沢俊夫による)、東京ばかりでなく全国にブームは広がりました。僕が小学校低学年だった頃に、近所の権田さんに連れられて行った駒澤大学のグランドで行われた盆踊り大会でも“東京音頭”が流れていた覚えがあります。歌詞はご存じの通り“ハア 踊り踊るなら チョイト 東京音頭 ヨイヨイ”から始まる他愛ないものだと思っていたのですが、今は歌われていない歌詞がありました。
  2番
  東京よいとこ 日の本てらす 
  君が御稜威(みいづ)は、君が御稜威は天照らす (*御稜威:天皇の威光)
 5番
 君と臣(たみ)との  千歳の契り 
  結ぶ都の 結ぶ都の二重橋 
 
  ちゃんと権力におもねる仕掛けがしてあるのですね。レコードから流れる東京音頭に合わせて踊る人々の写真を見て、号令のもと1万人がラジオ体操をした「第3回夏期ラジオ体操開会式」(連載NO.145)を思い出しました。


写真1番目 甲式四型      「東京日日新聞・府下版」(1933.7.25)
写真2番目 この偉観 拡充する飛行第五連隊と田中連隊長 「東京日日新聞・府下版」(1933.8.1)
写真3番目 立川小唄記念碑    筆者 2019.3.14撮影


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。