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多摩のむかし道と伝説の旅 №23 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

鑓水商人の夢の跡、絹の道・浜街道をゆく 3

                      原田環爾

 以降、絹の道・浜街道を実踏した場合に出会う風景、歴史的遺構、伝説やエピソードなどを、主に鑓水峠越えの絹の道と、浜街道の終端横浜道に焦点をあてて解説する。

 23-1.jpg浜街道の起点八王子八日町の交差点から国道16号線(浜街道)を進む。京王線のガードを抜け、北野街道を越えると浅川の支流湯殿川に架かる住吉橋に出る。橋の袂から片倉城址が見える。片倉城は鎌倉幕府に仕えた政所別当大江広元の子孫長井大膳大夫道広によって築城されたと言う。橋を渡ると右に赤煉瓦造りのアンティークな喫茶店があるが、その筋向い東に入る街路を採って大塚山鑓水峠を目指す。JR横浜線のガードを抜けると兵衛川に遮られる。昔はここに橋があったというが今は無い。川向うに絹の道が栄えた当時からあったという石塀の屋敷富士家あり、その横の路地が続きの道筋になる。東隣りの釜貫橋を渡って続きの路地へ向かう-。ちなみに橋名「釜貫」とはこの辺りの谷戸を釜貫谷戸と呼ぶことによる。程なく慈眼寺の参道入口23-2.jpgに来る。その一角に古びた石の道標がある。道標の正面には『板橋ヨリ壹丁参道』、左面は『至子安村』、右面に『至ヤリ水村』、裏面に『武州多摩郡片倉邑』と刻まれている。参道を奥へ100mも入れば慈眼寺の山門がある。曹洞宗の寺で山号を白華山と号す。本尊は正観音。文安2年(1445)阿弥陀堂がその始まりという。山門は2階建てで、1階左右に仁王、2階23-3.jpgに鐘楼を兼ねた鐘楼門になっている。梵鐘には初期の鑓水商人の名が刻まれているという。

 この先は新興住宅街で旧道は消滅しているので旧道のあった辺りを進む。釜貫白山神社を左にやり緩やかな坂道を上ってゆくと、やがて八王子バイパスの陸橋の袂に出る。前方に二基のアンテナ塔が立つ大塚山が見える。約150段のコンクリートの急階段を上り切るとそこが鑓水峠だ。振り返ると片倉の街並が一望の元に見渡せる。アンテ23-4.jpgナ塔を右にやり雑木林の道を進むと堂了堂の参道下に来る。そこに絹の道碑が立っている。碑は絹の道を世に知らしめた故橋本義夫氏が中心となり鑓水商人記念東京多摩有志により昭和32年造立されたものだ。台石には繭と糸巻きと桑の葉が彫られている。参道の石段を上がると鬱蒼とした平坦地に道了堂の礎石が残されている。道了堂は正式には永泉寺別院大塚山大学寺と称す。明治7年、峠往来の安全を祈念し、大塚五郎吉が中心になって、永泉寺第17代住職渡辺代淳を開山に、東京花川戸から堂宇を23-5.jpg移築し、小田原の曹洞宗最乗寺道了堂の分霊を祀った。最盛期には子守堂、庫裏、書院が立ち、茶屋も数軒並び、桜の頃は参詣者で賑わったという。しかし絹の道の衰退に伴い道了堂は寂れ、昭和38年堂守婆の殺人事件以降人の往来が絶えて荒廃し廃寺となり、昭和58年解体撤去された。今はただ礎石を残すのみである。

 道了堂前から嫁入谷戸を左に見て峠道を下る。絹の道の原風景を23-6.jpgよく留めている所だ。やがて民家が現れ雑木林が払われると、御殿峠から厳耕地谷戸を抜けて下ってきた車道に合流する。鑓水三叉路という。この車道は八王子の市へ行く道であったことから古くは市道と呼ばれた。合流点には秋葉大権現の石塔、庚申塔、百八十八ヶ所供養塔、それに道路改修記念碑、更に片隅に『御大典記念 此方鑓水停車場』と刻んだ小さな石碑がある。これはかつて頓挫した建設計画のあった南津電気鉄道の鑓水停車場の予定地とされた御殿橋付近に立っていたものという。

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