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余は如何にして基督信徒となりし乎 №60 [心の小径]

 第十章 基督故国の偽りなき印象 - 帰郷 1

                     内村鑑三

 基督教国における余の修行は終りを告げたのであるから、読者諸君は余がそれについて結局どういうふうに考えているかを知りたく思われるであろう。余は初めてそこに上陸して受けた印象を最後まで保持したか。基督教国は結局は異教国より勝(まさ)っているか。基督教は余の国に取り入れる価値があるか、あるいは基督教外国伝道の存在理由はあるか。
 まず余をして率直(そっちょく)に告白せしめよ、余は全く基督教国に心を奪われたのではないことを。三年半のそこでの滞在は、それが余に与えた最善の厚遇と余がそこで結んだ最も親密な友情とをもってしても、余を全くそれに同化せしめなかった。余は終始一異邦人であった、そして余はけっしてそうでなくあろうと努力したことはなかった。文明化された国にいるテラ・デル・フェゴー人が南十字星の下の白波寄せる海角を徘徊(はいかい)した昔を慕い、ラテン化されたインディアンが故郷の草原(プレアリ)で再び野牛の友となることを求めるというようにではなく、より高いより高貴な目的をもって、余は基督教国滞在の最後にいたるまで『ホーム・スウィート・ホーム』の思慕をもって余の故国を慕ったのである。かつて余はアメリカ人やイギリス人になろうという願いをいささかでもいだいたことはなかった、かえってむしろ余の異教的関係を余自身の特別な特権と考え、余を『異教徒』として、そして基督信徒としてでなく、この世に生み出したもうたことを幾度となく神に感謝したのである。
 なぜなら異教徒として生れる幾多の利益があるからである。異教を余は人類の未発達の段階であって、基督教のいかなる形態によって達せられた段階よりもより高いより完全な段階に発展し得べきものと考える。尽きざる希望が、すべての先人のそれよりより壮大な人生にむかって冒険を試みる青年の希望が、基督教によって触れられていない異教諸国民の中にあるのである。そして余の国民は歴史上では二千年以上の年齢であるけれども、キリストにおいてはまだ子供であり、未来のあらゆる希望と可能性はその急速に進歩しつつある日々のなかに隠れているのである。そのような日々を数多く目撃することができることは、余の感謝に堪えないことである。 - かくして余は新真理の力をより多く感ずることができた。『生れながらの基督信徒』には陳腐な常套譜と響いたものが、余には新しい啓示であった、そして
  『薄明の露の帳の下に、
  大なる落日の光を浴びて、
  宵(よい)の明星(みょうじょう)は天の衆軍とともに現れ、
  見よ! 創造は人の視野に拡がりき。』
その時、おそらく我々の最初の親たちによって歌われたであろうすべての讃美を、余から引き出したのである。余の中に余は基督教十八世紀間の変化と進歩を目撃することができた、そして余が余のすべての争闘の中から出て来た時に、余は自分が同情共感の人であることを知った、偶像崇拝から、十字架にかけられたまいし神の子における霊魂の解放にいたるまでの、霊的発展のあらゆる段階に余は通じていたからである。かかる幻想と経験とは、神の子のすべてに与えられてはいない、そして第十一時に招かれた我々は、少なくともこのように長く暗黒の中にとどまっていたすべての損失を償(つぐな)うべき、この特権を有するのである。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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