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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №99 [文芸美術の森]

エピローグ 4

           早稲田大学名誉教授  川崎 浹

日本の笑いと政治アネタドートのちがい

 私は一八世紀のポチョムキン総督を分析したフランス人リーニュ公の文章に感心して、これを引用したが、その際、分析した者がされる者より魅力があるとは限らないと記した。そこには私がつぎのようにいいたいことの伏線があった。
 私は現代フランスのミッシェル・フーコからボードリヤール(たとえば『象徴交換と死』)にいたるまでの書に接しながら、その精密な分析と論理的な展開に驚いてきた。すでに早くパリに滞在していたころ、フランスの高校生が大学受験の資格を取る国家試験の問題「理性が歴史(?)において演じた役割についてのべよ」についての、ルモンド紙に掲載された一高校生の模範解答を読んで、感嘆した。
 成長したフランス人が恐るべき分析力で地球上の現象をことごとく理性と論理で網掛けしてしまうのは当然といえるかもしれない。その完成度はほとんど知性がこれ以上存在して何かを模索するのは意味がないと思われるほどであり、頂点としての死にたっしている。それは、フランスの人口がこの二十数年で減少し、アフリカ大陸の人びとが今はパリで警官にまで昇格している現象と無縁ではないのかもしれない。
 精密な分析による理論で隙間なく網掛けされた無菌状態のフランスと、レーニン、スターリンの名も知らず、ラジオやテレビに接したこともない集落をあちこちに蔵するシベリアのタイガの、闇と混沌をはらむ雑菌のロシアは一対(いっつい)の対照をなしている。
 フランスは笑いというより故知の世界である。
 いっぽう、日本においては、落語や川柳の笑いは別としても、テレビの普及以降、国中に広がったのは、場当たりのギャグやせいぜい駄酒落の程度で、発信者の底知れぬ力を象徴するのでもなけれ ば、受信者に理解のための想像力を要求するわけでもない。これがロシアの政治アネクドートとの大きなちがいの一つだろう。ロシア的な「笑い」、あるいはフランス的な「故知」のどちらとも日本はつかないのではないだろうか。

『ロシアのユーモア』 講談社選書

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