正岡常規と夏目金之助 №10 [文芸美術の森]
子規・漱石 研究家 栗田博行 (八荒)
第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅲ
ヒトの一生に、その生い立ちの幼い日々の体験が(またその記憶が)どう深く関わるか・・・日本人がそれを考える好個の材料を、子規は沢山書き残してくれています。また幼子規についての証言にもその好資料がいっぱいです。
「吾幼時の美感」はそのうちの大事な一つで、子規子の名で明治31年12月に、東京に拠点を移して発行され始めたホトトギスの第三号に掲載されました。正岡常規31歳の秋深い頃書かれたものです。幼い頃自分の心を魅了したモノや花や草木をこまごまと列記した上で、なぜか「溜壷に近き一うねの豌豆と、蚕豆の花」が、一番鮮やかにこころに蘇ると結んでいます。
あの108文字の墓誌銘に自分の生涯の事跡をまとめ、「コレヨリ上 一字増ヤシテモ 余計ジャ」とまで記した夜から4か月あまり。ほとんど寝たきりに近づいていく毎日にあって、余命少ない自覚から、幼いころの自分を想い出したのでしょう。
一文をこう始めています。
「吾幼時の美感」書き出し
極めて幼き時の美は只(ただ)色にありて形にあらず、況(ま)して位置、配合、技術など其外の高尚なる複雑なる美は固より解すべくもあらず。
其色すらなべての者は感ぜず、アップ(美麗)と嬉しがらるゝは必ず赤き花やかなる色に限りたるが如し。
「幼児というものは、ただただ赤く華やかなものを美しいと喜ぶものだ」と、文章は流麗でも、なんだか平凡な幼児一般論めいたことを、一旦述べます。「アップ」というのは伊予松山の子供の方言のオノマトペで、「アップップ」と重ねて「キレイキレイ!」という風につかいます。
乳呑子のともし火を見て無邪気なる笑顔をつくりたる、四つ五つの子が隣の伯母さんに見せんとていと嬉しがる木履の鼻緒、唐縮緬の帯、いづれ(も)赤ならざるはあらず。 ・・・確かにそんなこと言えそうだなと相槌を打ちたくなったところで、こう転じます。
わが幼き時の美の感じは如何にやと思ひめぐらすに 五六歳以下の事は記憶に残るべき道理無し。(あれ、何もないのかと思わせられかけるのですが・・・)
吾が三つの時、母は吾をつれて十町ばかり隔りたる実家に行きしが
一夜はそこに宿らんとてやゝ寝入りし頃、ほう へ と呼びて外を通る声
身に入(し)みて夢覚めたり ( ほう へ とは火事の時に呼ぶ声なり )
明治2年(=まだ満年齢では2歳といくばくか)のある夜、母・八重が実家に處之介(子規の最初の幼名)クンを泊りがけで連れて帰っていた時の出来事でした。
すは火事よとて起き出でゝ見るに火の手は未申(西南の方)に當りて盛んに燃えのぼれり。
我家の方角なれば、気遣しとて吾を負ひながら急ぎ帰りしが、我が住む横町へ曲らんとする瞬間、思ひがけなくも猛烈なる火は我家を焼きつゝあり
其時背に負はれたる吾は、風に吹き捲く炎の偉大なる美に浮かれて、
バイ へ (提灯のこと)バイ へ と躍り上りて喜びたり、
(火事は延焼ではなく正岡家の失火による全焼で、一説には父・隼太と曾祖母ひさが酒をのみ七輪の火を消さずに寝たためとも伝わっています。)
「五六歳以下の事は記憶に残るべき道理無し」と書き出されたこの一節、「母は語りたまいき」と結ばれています。つまり、満2歳すぎのころの「正岡家失火による全焼」という人生経験そのものは、執筆している「子規子」自身の直接の記憶ではなく、母・八重に聞かされたことの記憶として述べられているのです。
子規のことを、一生「ノボ=升」という幼名で呼びつづけたという八重さんは、いつ頃「ノボな、あのな・・・」とこのことを話して聞かせたのでしょうか・・・。興味深い所ですが、それを突き止める資料は在りません。
ただ言えるのは、子規がこれを執筆した時期と推定できる明治31年晩秋は、明治22年の喀血・明治28年の従軍強行・以後の病勢の進行・108文字墓誌銘の執筆、等々の人生体験を経た壮年期であったという事です。このライフステージにあって、「自分」というものを振り返って見つめ始めた時、正岡常規の胸中には、その一番奥深い所にこの2歳児の時の出来事の像(イメージ)が定着していたのです。そして、幼い日の自分の美意識の始まりを考えて筆を執った時、まるで自分の直接体験の記憶のように鮮やかに真っ先に呼び起こされたものだったのでした。
「原体験」というのはこういうことをさして言う言葉なのでしょうが、これを
「原像」とでも言うべきものに置き換
えてみると、
①猛烈な火で燃え上がる我家
⓶それを見て立ちすくんだ母
⓷その背に負ぶわれている自分
④風に吹き捲く炎の美しさに
バイ へ とはしゃいだボク
⑤それらを語り聞かせた母親
という5枚の映像が重なって見えてくる気がします。
ここで気づかされるのは、子規自身が直接体験したのは、あくまで⑤の「母親体験」であって、①~④はそれによって心に焼き付けられた映像(=心象)であるという事です。八重さんによってノボさんの「魂」とも言うべきところに生み落とされた・・・しかし虚像ではなく生涯の重要な事実に基づいた記憶であり、八重さんが語り聞かせなければ子規の心に残らなかった・・・そんな幼児期の重要な体験だったということです。
それも「教育ママ」的な意図などの全く働いていない(笑)、八重さんの母親としてのごく自然な、「呟きに近い語りかけ」よってのことだったという感じが漂っています。そこに、八重さんの人柄や振る舞いと、ノボと呼ばれた男の子に恵まれた「安定した母子関係」が伺えます。子規という明治日本男子は、それを特に恵まれたとは気づかないで生き死にした感じがありますが・・・。
この「明治2年・正岡家の火事」という情景を、別の視点から見てみますと、もうひとつ見えてくるものがあります。
燃え上がっている我が家について、「・・と見るや母は足すくみて一歩も動かず」と記していたのは子規子でしたが、火事の時はまだ生まれていなかった妹・律さんが語り残したことによると
母は御承知の通り、何事にも驚かない、
泰然自若とした人でした
(正岡の宅が火事で焼けた時も)
嫁入道具なども何一つ残らないで焼けたのでしたが、それすら、残念さうな顔一つしなかつた、と当時の話題にもなつた、といふことです。
(家庭より観たる子規 碧梧桐の律への聞き書き・昭和8年)
と、およそノボの心に落しこまれた「立ちすくんだ母」とは対照的な八重さんの存在感が伝わってきます。 松山藩の儒者・大原観山の長女、松山藩お馬回り加番・正岡隼太の妻、そして正岡常規と律の母・・・武家の刀自として「泰然自若とした人」の正岡八重の姿が静かに浮かび上がってくるのです。
「火イを見て、母さんは思わず足がすくんでノ」と、ノボが聞かされたに違いない情景を、律さんの方は聞かされずに育った気配があります。八重さんの立ち居振る舞い=母性の懐の深さのようなものを感じざるを得ません。
律さんが、八重さんの述懐によると、「よつぽどへぼで へ 弱味噌でございました」という兄のために「石を投げたりして兄の敵打をする」(母堂の談話 碧梧桐 記)ような女の子に育ったのも、それ故かもしれません。
そして、そのような母に育まれた男の子の安心感が、生家の全焼という場面を恐怖や悲痛の感じが伴わない、・・・むしろ可笑くて愉快なものとして心の底に流し込んだ源泉となったに違いありません。
筆者(八荒)は、子規の生涯を考える番組制作で、大江健三郎さんから「女性的なるもの・母性的なるもの」というキイワードを学んだことがあります。子規の幼年期から少年期の生い立ちは、まさにそれにくるまれていた点で恵まれていたのでした。(八注・この点で漱石や三島由紀夫のことを考えると、痛々しくて書くのが嫌になるほどです。いつかは触れなければなりませんが)
明治2年の火事体験の後、ノボさんに、もの心つく段階がきます。「吾幼時の美感」の続きの部分によると、いったんはこんな気持ちになったようです。
我家は全焼して僅に門を残したる程なりければ、さなくとも貧しき小
侍の内には、我をして美を感ぜしむる者何一つあらざりき。
七八つの頃には人の詩稿に朱もて直しあるを見て朱の色のうつく
しさに堪へず、吾も早く年とりてあゝいふ事をしたしと思ひし事もあり。
ある友が水盤といふものゝ桃色なるを持ちしを見ては其うつくしさに
めでゝ、彼は善き家に生れたるよと幼心に羨みし事ありき。
といったひがみっぽい気持にノボさんは傾斜した一時もあったようなのです。
しかしすぐ
こればかり焼け残りたりといふ内裏雛一対紙雛一対、
見にくゝ大きなる婢子様一つを赤き盆の上に飾りて三日を祝ふ時、
五色の色紙を短冊に切り、芋の露を硯に磨りて庭先に七夕を祭る時、
此等は一年の内にてもつと楽しく嬉しき遊びなりき。
いもうとのすなる餅花とて正月には柳の枝に手毬つけて飾るなり、
それさへもいと嬉しく自ら針を取りて手毬かゞりし事さへあり。
昔より女らしき遊びを好みたるなり。
という風に、勇ましくて雄々しいものには向かわず、美しくてたおやめぶりなものへとこころを傾斜させてゆきます。そしてそれによって、あの「子規生涯の向日性」とでも言う
べき方へ一歩を踏み出すことになるのです。 (この項・次号3月16日へ続く)
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