コーセーだから №48 [雑木林の四季]
コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」9
(株)コーセーOB 北原 保
床に香料をぶちまく
小林社長〝若き日の思い出〟
小林社長〝若き日の思い出〟
〝香りの芸術〟
高橋東洋堂はもとは薬問屋、香料を仕入れて先代の高橋志摩五郎社長が趣味で香水をつくっていた。これが発展して、香水の入ったビンにリボンをつけて5銭で売ったのが化粧品に足をつっこんだはじまり。
当時、5銭といえば餅菓子のしにせである〝三好のあんころ〟が10個買えたし、映画(活動写真)は弁士つき5銭、浅草へ行くと三館を5銭でゆっくり見物して遊べたものだという。
「戦後のコーセー創業時代に比べると隔世の感がありますが、当時の化粧品づくりの技術は幼稚ではありましたが、基礎的な知識はいまより個人としてすぐれた人がいましたよ」
小林社長は当時見よう見まねで教わったカンが今も生きている。化粧品〝香りの芸術〟といわれる。匂いに対して鼻が目ほどきかないとダメだ。
当初、小僧だった小林孝三郎氏は、東洋堂の田辺誠一支配人(現専務)の信頼をうけ、朝から晩まで香料の調合を手伝っていた。ある日、香料学者といわれた高橋先代社長から呼ばれて「この香料の調合を手伝ってくれ」といわれた。そこで40リットル入りのビンに香料を入れて調合していたところ、どうしたハズミか、振っているうちにガシャンとビンが割れてしまった。あたり一面は香料びたし、あわてた孝三郎少年は脱脂綿でふきとろうとしたが、香料は発散性のもの、廊下に流れこんで、廊下やトイレにまで〝香水の匂い〟でプンプンになった。
「香料は大変に高価なもの、その損害は大変なこと、どうしようかと肝が冷え切る思いでした。ところが、先代社長は〝お前どうした〟といわないんですよ。あのとき少年だった私の心は、先代社長が神様のように思われましてね」
なんと東洋堂のトイレはその後1ヵ月ぐらい〝香水の匂い〟がただよっていたというのだ。こうした失敗は小林社長の大いなる財産になった。小林社長はいまでも、新しい化粧品を発表するときは社長自身が香料をえらんでいるが、ふと50年前に失敗した〝香水の匂い〟を思い出す。同時に田辺支配人の「科学者というのはどんな細かいことでも見落としがあっちゃいけない」という言葉が返ってくるのだ。
化粧品業界というのは、昔から浮き沈みのはげしい業界。派手に宣伝している会社が明日はつぶれてしまう。「一流の大手といわれる会社が消えてなくなるというのは化粧品業界だけじゃないか」と小林社長はいまさら不思議に思う。
大正時代のはじめ、化粧品業界はレートとクラブが日本を二分して〝東のレート、西のクラブ〟といわれてシノギをけずっていた。当時、北海道のレート対クラブの〝クリーム合戦〟ははなやかだった。北海道の化粧品の小売店はレートとクラブのクリームを山のように積んで売った。クラブの中山太陽堂の社長が大阪の商工会議所で演説するとまるで今の首相の演説なみ、五百軒の代理店がワット集まる。負けてはならじとレートは東京で代理店を集める。クラブの中山太一社長が、〝大阪商人〟よろしく一軒一軒に頭を下げてまわると、「おじぎのしぶりがちがう」と評判になる。まさにNHKのドラマ〝天と地と〟の上杉と武田の戦いを地でいくようだった。
こうした業界の中で高橋東洋堂は、香水ではずい一の信用あるメーカーになっていた。こんな話がある。
当時、レート化粧品の平尾賛平社長の弟さんが東京・横山町で平尾銑也商店を経営して「パール」という化粧品を売っていた。東洋堂はこの「パール」の製造を引きうけていた。そのころ宣伝はいまのようなマスコミの少ない時代、もっぱら芸能界の人気ある役者が宣伝に使われていた。「パール」は当時の曾我廼家五九郎をヒイキにし宣伝して大当たりしていた。五九郎が地方巡業すると「パール」がとぶように売れる。外国まで売りまくっていた。
「それが派手にやりすぎてバタンとつぶれてしまうのだから、化粧品業界の歴史というのは、変遷のはげしい商売だったんです」小林社長にとって業界浮沈の歴史は〝経営の教訓〟だった。
(昭和44年10月16日付)
当時、5銭といえば餅菓子のしにせである〝三好のあんころ〟が10個買えたし、映画(活動写真)は弁士つき5銭、浅草へ行くと三館を5銭でゆっくり見物して遊べたものだという。
「戦後のコーセー創業時代に比べると隔世の感がありますが、当時の化粧品づくりの技術は幼稚ではありましたが、基礎的な知識はいまより個人としてすぐれた人がいましたよ」
小林社長は当時見よう見まねで教わったカンが今も生きている。化粧品〝香りの芸術〟といわれる。匂いに対して鼻が目ほどきかないとダメだ。
当初、小僧だった小林孝三郎氏は、東洋堂の田辺誠一支配人(現専務)の信頼をうけ、朝から晩まで香料の調合を手伝っていた。ある日、香料学者といわれた高橋先代社長から呼ばれて「この香料の調合を手伝ってくれ」といわれた。そこで40リットル入りのビンに香料を入れて調合していたところ、どうしたハズミか、振っているうちにガシャンとビンが割れてしまった。あたり一面は香料びたし、あわてた孝三郎少年は脱脂綿でふきとろうとしたが、香料は発散性のもの、廊下に流れこんで、廊下やトイレにまで〝香水の匂い〟でプンプンになった。
「香料は大変に高価なもの、その損害は大変なこと、どうしようかと肝が冷え切る思いでした。ところが、先代社長は〝お前どうした〟といわないんですよ。あのとき少年だった私の心は、先代社長が神様のように思われましてね」
なんと東洋堂のトイレはその後1ヵ月ぐらい〝香水の匂い〟がただよっていたというのだ。こうした失敗は小林社長の大いなる財産になった。小林社長はいまでも、新しい化粧品を発表するときは社長自身が香料をえらんでいるが、ふと50年前に失敗した〝香水の匂い〟を思い出す。同時に田辺支配人の「科学者というのはどんな細かいことでも見落としがあっちゃいけない」という言葉が返ってくるのだ。
化粧品業界というのは、昔から浮き沈みのはげしい業界。派手に宣伝している会社が明日はつぶれてしまう。「一流の大手といわれる会社が消えてなくなるというのは化粧品業界だけじゃないか」と小林社長はいまさら不思議に思う。
大正時代のはじめ、化粧品業界はレートとクラブが日本を二分して〝東のレート、西のクラブ〟といわれてシノギをけずっていた。当時、北海道のレート対クラブの〝クリーム合戦〟ははなやかだった。北海道の化粧品の小売店はレートとクラブのクリームを山のように積んで売った。クラブの中山太陽堂の社長が大阪の商工会議所で演説するとまるで今の首相の演説なみ、五百軒の代理店がワット集まる。負けてはならじとレートは東京で代理店を集める。クラブの中山太一社長が、〝大阪商人〟よろしく一軒一軒に頭を下げてまわると、「おじぎのしぶりがちがう」と評判になる。まさにNHKのドラマ〝天と地と〟の上杉と武田の戦いを地でいくようだった。
こうした業界の中で高橋東洋堂は、香水ではずい一の信用あるメーカーになっていた。こんな話がある。
当時、レート化粧品の平尾賛平社長の弟さんが東京・横山町で平尾銑也商店を経営して「パール」という化粧品を売っていた。東洋堂はこの「パール」の製造を引きうけていた。そのころ宣伝はいまのようなマスコミの少ない時代、もっぱら芸能界の人気ある役者が宣伝に使われていた。「パール」は当時の曾我廼家五九郎をヒイキにし宣伝して大当たりしていた。五九郎が地方巡業すると「パール」がとぶように売れる。外国まで売りまくっていた。
「それが派手にやりすぎてバタンとつぶれてしまうのだから、化粧品業界の歴史というのは、変遷のはげしい商売だったんです」小林社長にとって業界浮沈の歴史は〝経営の教訓〟だった。
(昭和44年10月16日付)
1922年 営業担当になって2年目の頃
1952年 高橋東洋堂時代に化粧品の全てを教えてくれた恩人の田辺誠一氏(左)と
2019-02-24 15:32
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