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じゃがいもころんだⅡ №3 [文芸美術の森]

さよならテニスコート

              エッセイスト  中村一枝

 寒いけれど春は確実に近づいている。春に先駆けてこんな決断をするのはなんともわれながらくやしいのだが、18才で白血病の治療に入る事を宣言した池江璃花子さんのことをおもえばわたしのは単におばあさんの繰り言にすぎない。以前40歳からのテニスと言うエッセイを書いたことがある。50くらいの時だろうか。テニスをはじめて長年の宿痾だった喘息と決別した話である。喘息と綺麗さっぱりわかれられたんだからそれでいいじゃない、と言われそうだが、長年慣れ親しんできたテニスとの別れは恋人との別れもかくやという気もする。とにかく徒歩五分くらいのところにテニスコートがあり、柵がなければ飛び降りていかれる距離である。朝、天気さえ良ければ頭にビビっと電流が走る。何をおいてもテニスへ行こうという気持ちである。その間には大腸癌の手術という事件もあった。テニス仲間の仲良しの田中鈴江さんを亡くした事もある。
 それでも40年続けてきたのはもう一人の相棒、青木さんのおかげでもある。正直、実直、誠実そのもの、お世辞は一切なし。欲も誇張も全くなし。峠の一本杉みたいなひとだからこそわたしは下手くそなテニスを続けてこられたのだ。彼女とは息子同士が小学一年のときから中学三年まで同じ学校である。青木くんは始めから終わりまで東大出の優等生。息子はいつもすれすれの成績、さらにバンクまがいの頭、おかしな格好で誰かを驚かせた。今思うと、それなりに親をハラハラさせながら、どこかとぼけた愛嬌で卒業した。その間青木さんは干渉がましい事を一つも言わず黙って見ていてくれた。彼女はそういうひとなのだ。テニスコートでは元々運動神経もありテニス以外バレーでも有能だった彼女。中村さんと離れたほうがあなたは伸びると言われながらも、私の下手くそなテニスに40年も付き合ってくれたのだ。わたしは元々運動神経は鈍い上に瞬発力もない。よくそんなのにテニスやってると言われながら、40年続いたのは青木さんのおかげなのだ。家から見えていたテニスコートが最近、工事で全く見えなくなった。いろんなことのあった40年、それはまたわたしが懸命に生きつづけた40年でもあつた。
  これから毎日、私はテニスコートを横目に見ながら駅に急ぐ事になるだろう。青木さんは私より若いうえに能力もあるのでまだテニスを続けて行くだろう。駅への行き帰りテニスのラケットを持った人達に出会うと自然に口が綻ぶ。およそ自分とは無縁のものと思っていたテニスとの長い付き合い、それが私の足の具合が悪くなり、歩くのもスムースに進まなくなるという思いがけない事態が起きて幕をひくことになった。これも年齢のせいと思えば諦めもつく。いろんな思い出が頭をよぎる。このコートはわたしにとって人生をふみかためた忘れられぬ土なのだ。春に先駆けてコートを去る、それもまたいいじゃないか。

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