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正岡常規と夏目金之助 №9 [文芸美術の森]

     子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承 
           子規・漱石 研究家  栗田博行 (八荒)
     第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅱ
    明治の書生たちの交遊の心 二
       …ほととぎすを名乗ったこと・子規の出自と生い立ち①
                            (つづき)の(つづき)の(つづき)
           
  おさらいです。
  正岡常規君が、代表的なペンネームとなる「子規」を最初に名乗った相手は大谷藤次郎君でした。一高生になってすぐのころ文学への関心が同じだったことから夏目金之助君より先に交際を深め、「親友」と位置付けていた同窓生でした。それに気づいたことから、思わず深入りして子規漱石の出自と生い立ちを追うことから離れ、明治の一部エリート層の青年の間に潜流していた精神的気風に触れることになりました。

9-1.jpg

  それは、明治20年前後に同世代の若者として活発に「書生付き合い」をした人たちの中に横溢していた、相手の人生苦や金銭面の都合(懐具合)に配慮に富んだユーモア感覚で応対する気分があったという事でした。

「明治の書生たちの交遊の心」、この回で最後にしますがもう少しフォローさせてください…。
 一高を退学し、もう「書生」ではないライフステージに踏み込んだ大谷君は、2年余り大9-2.jpg阪と津山で療養しながら、人生の歩みを模索します。明治25年、「脳痛」の病を克服し得たのでしょう…郷里の津山で5年間教員として働きます。その後さらに、大阪に出て汽船会社に勤める等、実業界の人となり、清国に渡った時期もあります。さらには子規没後ですが、中外商業新報という経済紙の論説の執筆者として社会に発言することを仕事とします。その間是空の名で、俳人・文人としても筆を執りつづけ、子規との親交を書き記した内容を沢山含む「浪花雑記」という随筆を残しました。それは、この世代の明治日本人の思索と人生の跡をたどる貴重な資料のひとつとなっています。(八注・埋もれかけていたそれを発掘してくれたのが、前述した故和田克司氏でした。)大谷是空藤次郎。実業界を生きた教養人として生涯を全うしました。昭和14年、73歳での没でした。

 時間をさかのぼります。
 明治23年1月7日、退学後郷里津山で療養していた大谷君は、冬休みで松山の実家に帰っていた正岡君に近況を知らせます。
 烈寒の砌(みぎり)御病気の御隙(おひま)も無之候や
と、まず子規の具合を一旦は尋ねますが、自分のことについて
 小生は兎角捗々しからず 殊に此頃はmelancholyに
     閉口罷在申候 胸中の事談る(かたる)に友なく実に
                      自分ながら自分が分らぬ位にて…
                          故里にありて猶孤客の思有之候
  時々書画骨董抹茶を喫して慰居申候 
                              ・・・人生の末路恐ろしく存居候
と、「脳痛」と呼んできた自分の状態がかなりな所へ来ていることを、極めて率直に知らせます。そして
           子規兄 玉案下   是空子
と結び、最後に三句を追記します。
  中国の月に来て鳴け子規
         鳴くならば我にも鳴かせ子規
                 四国から中国渡れ子規
 正岡君子規と呼び自分を是空としている点、そして3句の内容から言っても、大谷君の胸中に正岡君が血を吐いた頃からの二人の文通のハート(=文体)が、健在であることが分8-6.jpgかります。句意は三句とも「自分の所へチョット寄っておいでよ、子規を名乗った正岡君ヨ」という呼びかけです。決して「自分の身の上に血を吐く鳥よ、やってこい」という意ではありません(笑)。暮に、東京へ向かう途中君を訪ねるかもしれないという知らせがあって、大谷君は心待ちにしたのでした。
 1月23日,正岡君は周囲の心配をよそに旅立ちます。ところが、瀬戸内の船旅が悪天候で大きく遅れてしまい、船酔いと嘔吐で体調も崩し、大谷君が待ち受けている津山には行けそうになくなります。そこで松山を出て2日後の1月25日、多度津から大谷君にことわり状を出します。その結びに、いずれ近いうちには会いに行きたいが、それまでは
  小生の代参として端書を使にして隔日位には差出し お百度をあげ                         9-6.jpg     可申候
と述べ、葉書でお百度参りのようなことをすると約束したのです。
 
孤独とmelancholyに苦しむ友人の人恋しい気持ちを受けとめた図星の提案でした。筆と郵便ポストしかないこの時代に、今のメールかラインのコミュニケーションのようなことを葉書でするというのです! さらに行けなくなったことを詫びて
 大慈大悲の御心もて御海容奉祈候
(ゆるしてくれたまへ)
 南無阿弥陀仏 
続け 常規凡夫事 色身情仏より とふざけて名乗り、大谷君には本願寺の大和尚 大谷是空大師弘法大師に見立てたネームを謹呈。 
    中国をかすめて飛ぶや子規 
とつけてこの手紙を締めます。ウイットに富むというのはこの事でしょうか…。
  それから3日後静岡までたどり着いた子規は旅宿から大谷君に葉書によるお百度参りの一回目を実行します。全部で70回をこえる往復となったようですが、こんな第一信となっています。
                    お百度参り第一
 御前様がこのまゝでおかくれ遊ばしたら(亡くなろうものなら)
  一社の神に祭り 治頭(アタマを癒す)神社と稱へ(となえ)
      脳病の者はお百度をあげると吃度(キット)直る様に可致候
「君が亡くなったらお社に祀って治頭神社ととなえ、頭痛もちがお百度参りをすれば必ず治るようにしよう」・・・よくまあこんな発信が、筆書きで漢文脈の挨拶言葉が常識だった時代に、そして悲痛に訴えてきた相手に対して出来たものだとあきれ、かつ感嘆せざるを得ません。その上でこう締めくくっています。
 直らぬ様なら祀もむだゞから 直るなら直ると今から
                          保護可被成候(自愛なされんことを・・・
          明治二十三年一月廿八日
         静岡大東館にて  帰りがけの子規 拝

「落第・脳痛・退学」と「喀血」、大谷君子規自身も人生の試練に見舞われ、一段と苦難に立ち向かわざるを得ない境涯にありました。その中でこんな発信をしているのです。これが子規になり始めたころのあの書生気分を喪わず、むしろさらに強めていた正岡常規君のこころの状態だったのです。
 ふつうなら、降りかかった苦難を同情し合い暗く深沈と傾斜しかねない流れを、ユーモア(=俳諧味)の目線で、同病相哀れむの反対、同病相励ます方向に転換しているのです。・・・もちろん大谷君は、これを愉快に受け取ったことでしょう。だからふたりの「お百度参り」と名付けた葉書の往復は、70回を超えて続いたのです。
 
9-3.jpg 子規の青春随筆「筆まかせ」には、その「お百度参り」についてこんなやり取りも筆写・保存(思い起こしてのコピー)されています
 明治23年7月19日に、帰郷していた松山から発信しているのですが、今度は大谷君(大阪滞在中)が見舞いもかねて松山を訪ねたいと言ってきたのに、どうも来る報せがないので、「お百度参り」(29回目)でこの絵葉書で、(ノーコメントで)問いかけたのです。「筆まかせ」に自らこう注釈しています。

    これは「なしてこんか」という判事物也 「なして」とは
                    津山地方の方言にして何故の意なり。
と、自分が大谷君に出した判じ絵の意味を説明。彼にすれば快心の絵手紙だったのでしょうか・・・。「梨」と「手」と「キツネ」と「蚊」で「なしてこんか」というわけです。

 9-4.jpgこれに対して大谷君からも絵手紙が返ってきてそれを、模写しています。
 これです。そして
 「おばいねばすぐゆきます」(=尾葉稲葉酢具雪枡)ということならんか。」と説明をつけ、「蓋し是空子の叔母、阪府病院に在るなり。」とコメントしています。(どういう事情かは不明。)
 筆者(八荒)は、この判じ絵を読み取るのに悪戦苦闘しましたが、ヤット分かりました。右一番上は馬の「尻尾」らしいです。その下は「葉」。さらにその下は「稲」。左上は再び「葉」。そして御酢を入れた「徳利」。その下の絵は「雪の結晶」と「升」らしい。これで、この判じ絵じの意味するところを
 「おばいねばすぐゆきます」(=尾葉稲葉酢具雪枡)と、ヤット読み取れたのでした
 これに対して、子規はすぐ絵手紙で大谷君に問いかけます。
  それが下の一葉です。(繰り返しますが子規が自分で筆写・保存しておいたものです)
9-7.jpg これについて子規は 
 余の判じものは「おばさんいつかへる?」の意也(=大葉 三、五、蛙)の意也。(筆まかせ 御百度参り廿九及び三十)と解説コメントをつけています。大きな「葉っぱ」、五匹の「蛙」、そして「?」。それで「おばさんいつかへる?」となるのですが、この時代にクエッションマークとは! 英語が苦手で、それも書生時代2度の落第の原因の一つだったようですが、こういう点では感度のいい青年だったのですね(笑)
 今盛行中のラインやメ―ルの「写メ」とか「スタンプ」といったことを、筆書き・郵便のみ・デジカメなし・コピー機もなしという明治20年代にあって早々と着想し、楽しみながら実行していたのです。
 お百度参りと名付けた70回を超える軽快な葉書の往復。自身の病勢について悲痛な発信をしたことから提案されて来たのでした。それは、大谷君にとって大きな癒し効果を生んだことでしょう。
  病癒えたのでしょう・・・明治25年10月、大谷藤次郎君は故郷津山にもどって教職に就き、この地の中学校教育の創成期に貢献します。以後この稿の最初に述べたように文人的教養に富んだ実業世界の人として生涯を全うするのですが、子規との交遊の貴重さに気づいた時から浪花雑記を記し始めたのでした。また子規没後も、数多くの子規についての回想を記しています。その一つに
  〇・・筆まめといふ事に於ては恐らく君以上のものはなからう、
  友人の手紙の面白きものはチャンと別に写し取つてあるし
      友人の俳句は其人其人の句集を作(つ)て写してある、
出すだけではなく、相手からの返信も写して保存し、句集にまでしていた人であることに気づき、感嘆しているのです。実はそれを最初に経験をした人が大谷君自身だったようです。
  僕が久しぶりに君の処へ行(つ)た時に笑天句集(僕当時の別号)と題するものを取り出されたには驚いてしまったのである
  久しぶりに会った友人から、文通の中で楽しんで書き付けた俳句を、「これ、キミの句集だ」と、まとめ綴ったものを見せられたのです。「驚いてしまった」のは当然のことだったでしょう。「笑天とはボクの当時の俳号」と語っていますが、落第して落ち込みかねない時に、「笑天様 聖天 様 焼天 様」と呼びかけられた愉快さからでしょうか、そのあと何回か「笑天」の俳号を使った跡も見られる大谷藤次郎・是空君でした。

  明治30年6月21日、音信のしばらく途絶えていた子規から大谷君に(お百度度参りの葉書ではなく)、一通の書簡が届きます。挨拶の言葉に続いて       
    ・・・小生漸次衰弱に赴(おもむき) 
                            先日も一嵐(ひとあらし)してやられ
        命ばかりは助かり侯へども今に天井を詠(なが)め居候
                         到底永いことはあるまじくと存候 
    乍併(さりながら)昨今は余程快方に向ひ
        食慾も十分睡眠も十分熱は八度以下と定まり候故
  まだ五日や十日に死(ぬ)る気遣も無之候間御放慮奉願候
    いざといふ時御暇(いとま)も出来兼候故 あらかしめ御暇こひ迄
                         如斯御座候 謹言
      明治三十年六月廿一日
                                  子 規   大谷 兄

  初めて子規と名乗った相手であった大谷君へのわかれの言葉でした。精神の強靭さは続いていましたが、子規の肉体は、この時こんな自覚をするまでに病んでいたのでした。これを受け取った太谷君は、
          僕は之れを見て真に真に泣いたのである
と回想しています。「真に真に」というくりかえしの中に、壮年期を健常に実業世界を歩んでいた大谷藤次郎君の、慟哭の声が聞こえてくる気がします。
  此の手紙ばかりは別にして保存して居る、
  之れを見ても君が生死の境に処して晏如として(安らかに落ち着いて)
                          乱れざるを知るに足るのである
そして5年後に、絶筆三句を詠んで静かに永眠した子規を紙上で知ってのことでしょう、この回想の文章を次のように結んでいます。
    文芸上の偉人として尊敬すべきは勿論なれども
      斯くも生死の境に悟到せるは
          蓋し古今稀有の偉人とするに足ると信ずるのである
                   〔日本 明治36・1・5〕
  大谷藤次郎・是空子規との出会いで、大きな人生の影響を受けた人びとの一人です。

9-5.jpg

「明治の書生たちの交遊の心」とした項、これで終わりとします。次回から、子規・漱石の幼年期からの成長過程に目を向けなおしますが、本人が書いたもの・周囲の証言の多さから、また文学者として先に生死し、与えた影響の深さの点からも、子規を軸として先行して述べてゆきます。
  次回・3月1日、正岡常規と夏目金之助 №10
     第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅲ
          豌豆と空豆の花の記憶 幼少期子規①
                                        お付き合いください。


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