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渾斎随筆 №27 [文芸美術の森]

 山口剛君のこと 1

                       会津八一                 

 學問は廣く深く、識見も秀で、多くの學生から尊敬の深かった山口剛君が、急に逝くなられたことは寔に惜みても餘りあることである。殊に私は一番古くからの友達として、一層感慨に堪へない。山口剛君は私と一緒に明治三十五年の四月に、もとの東京専門學校の高等学科に入学された。それから私は大學部に進み、山口君は豫科は二期だけにして高等師範郭へ進まれ、明治三十八年に国漢文科を首席で卒業された。後に山口君の話では、同じクラスで共に一學期だけ暮したと云はれるが、申訳ないことに、私の方ではその頃の記憶がない。で私の意識に始めて登って来た山口剛君は、明治四十三年の秋、二人共暫らく田舎の中學の教師をした後で、その時丁度一緒にまた東京へ出て来て早稲田中學の教員として赴任して来たその時であった。それから少し遅れて、もう逝くなったが、あの横山有策君がアメリカから締って来て、英語の教員になられ、この三人がその當時は一番新参の若い教員であったので、自然親しく交際することになった。アメリカのハーヴァードから掃って来た横山君は、シェイクスピアの研究に、相當の造詣を持ってゐられたやうであった。山口剛君はその當時既に、日本文學、殊に徳川時代の文學について豫程深い學殖を持ってゐられたやうであった。そして吾々三人は折々落ち合って、めいめいが新しく読んだ所も書物の話をしたり、一緒に名物を食べ歩いたりした。そして私と山口君とは郷土玩具の蒐集をしたことなどもあった。
 その當時の山口剛君は、晩年よりももつと寡獣な地味な研究家で、毎日こつこつ勉強された。そして或時自分の研究の一部分だといって、私に見せられた、フールスキャップに書いた徳川期の書物の書抜きが、厚さ四五寸もあるので、私かに驚いたことがあった。さうかうするうちに山口君は先づ高等師範部へ、そして私は文學部へ兼任することになった。そしてそこでは『徒然草』を講義するのが連年山口君の仕事であった。私は山口君のやうな人が大學部の文學科へ講義に出られたならば、學生の為に幸福であらうと思って、再三口入の役を勤めたものである。叉横山君に封してもひそかに同じ役目を勤めたものであるが、その當時は所謂自然主義全盛の時代で、早稲田の文學部が其運動の有力な中心點であった為であるか、横山君のシュイクスピアとか、山口署の徳川文學が容易に迎へ入れられる気色が見えなかった。其頃は自然主義でなければ文學でなかったのである。さうしてをるうちに偶然にもシェイクスピアの三百年祭が早宿田で行はれることになり、これを機として、當時既に引退して居られた坪内先生の後を受けて、横山君は首尾よく英文科に出講されるやうになったが、山口君が文學科の方に出られるやうになったのは、それからずつと後で、慥か国文科といふものが新設された時からであると思ふ。それ迄は山口君は、高等師範部で毎年同じ『徒然草』を繰返し繰返しして講義してをられた。そしてその所在なさに、毎年いくらかづゝ説明の順序を変へて見たり、譬喩のとり方を替へて見たり、そんな事に変化を求めて、せめてもの慰めにしてをるといふやうな不平を、いつもひそかに私は聴かされて居た。つまり其頃はまだ山口君の時代は来なかったのであった。しかし、さういふ云はば不遇の時代にも、山口君の研究は着々として続けられてゐた。いはば逆境に在りながら断へず倦まず撓まず晩年に見るやうな大成の素地を造って居られたのである。それから文壇の風潮は四五年目毎に幾度か変ったし、我が學園の風潮も次第に変つて来た。そして最後に山口君が學生の目前に全力を以て活躍される時が来た。
 山口君は私と知った頃は浅草の松葉町といふ所に住んでをられた。そして後に駒形の河岸の叔母さんの家へ越されたのであった。そして某所で山口君の全財産とも生命とも云ふべきあの夥しい書物を、あの大震火災の為に悉く焼いて、殆んど身を持って免れたといふありさまであった。その時の山口君の悲観の様子は目もあてられぬほどであった。その後はしばらく本郷に居り、本郷から雄司ケ谷に越して来て窪田空穂君の隣りで住はれた。そこで私はいつも思ふのであるが、山口君が晩年に、教壇でも學界でも、辯説や、文筆で、あの目覚しい活躍を始められるやうになったが、全く発表といふことを考へずに、二十幾年の間只管蘊蓄に没頭してゐられた同君が、かういふ積極的態度に出られるやうになったのは三つの原因があるのではないか。一つは時勢が向いて来たこと、一つは今迄大切に飾っておかれた数千冊の書物を一夜のうちにに失って了はれてそれが心機一転の動機となったこと。第三には、それまで私のやうな引込思案の者とばかり交際をしてをられた山口君が、窪田君のやうな、文壇の裏も表も知りぬいた年長者の隣りに住むやうになって、何かと発表といふことを考へられる機縁となったこと。此の三つであらうと思ふ。(『早稲田率報』昭和七年十二月)


『会津八一全集』 中央公論社

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