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雑記帳2019-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-2-15
◆鎌倉街道は地方と鎌倉を結んだ中世の主要道路、その上道(かみつみち)を歩きました。

私の住んでいる多摩地域では主な幹線道路はみな東西に延びているため、それが多摩の特性をつくっているといわれています。その中で、鎌倉街道だけは南北の道路です。
気を付けてみると、鎌倉街道と名のついた道路はあちこちにある。それもそのはず、中世の鎌倉街道は、道路を政治的に管理した江戸時代以前の、自然発生的な道路だったのです。人が歩けば道になる、こうして鎌倉へ通じる道はすべて鎌倉街道となり、都内だけで30本もあるのだそうです。

その、都内の鎌倉街道には西から、上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)の3つのルートがあり、多摩地域の街道は上道にあたります。その一部を歩いてみました。

JR武蔵野線北府中駅を降りればそこはすぐ鎌倉街道。武蔵野線は街道に沿うようにつくられています。
鎌倉街道をちょっと東にそれて国分寺街道を行くと、「馬場大門のケヤキ並木」にぶつかります。これはそのまま大國魂神社の参道になっていて、日本で唯一国指定の天然記念物です。「馬場」は武蔵国が古来良質な馬の産地で、家康が大坂攻めの際ここで馬を調達したことに由来します。府中では幕末まで馬市も開かれていました。(そういえば、東京にも馬込、駒込、練馬など馬にちなんだ地名が多いですね。)

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天然記念物のケヤキ並木

伝承によると、源義家が前九年の役(1590年)に大國魂神社に戦勝祈願し、凱旋時に1000本のケヤキを奉樹したのがはじまりとか、文献では徳川家康が義家の例に倣って慶長年間に植樹したことが伝わっています。1000年を超えるようなケヤキはさすがに残っていませんが、最も古いものでは樹齢600年を数えるそうです。
ケヤキは育ちが早く、硬いので、家具や健材に適しています。寺社の再建に自前で用意できるような配慮もあったのでしょう。
鳥居の前には御神木のケヤキがましましています。

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御神木と大鳥居

大國魂神社は武蔵国にあるすべての神社の総社です。
総社になったのは大化の改新(645年)後のことですが、創建は古く、2世紀ごろ。祭神の大國魂大神は出雲の大国主神と同根の神で、武蔵国を開き、人々に衣食住の道を教え、医療やまじないの術も授けた、武蔵国魂の神とされています。

総社なので、いろんな神様がいます。
面白いのは、鳥居をくぐってすぐ目につく宮之咩神社。天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀っています。 天岩戸に隠れた天照大神を踊りで誘い出した女神は芸能や安産の神様です。お産の時赤ちゃんが産道につかえずにするりと生まれるようにと、安産祈願に奉納するのは穴のあいた柄杓です。

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宮之咩神社

松尾社に奉られているの大山昨命はは醸造の神様です。
この神様は出雲族の出身だといわれています。
4世紀、天照族との闘いにやぶれて国を差し出した出雲族は、陸路で諏訪から武蔵国にはいったと考えられます。大国主命は人質として出雲に残りました。一方、天照族も東をめざし、こちらは水路で房総半島に上陸、利根川と荒川の2本の川に阻まれて(当時の利根川は現在の綾瀬川とほぼおなじところを流れていました)西進できず、悔し紛れに、川の向こうはコメも育たぬむさくるしい地だと言ったことから、「武蔵」の地名が生まれたのだとか。

御神木はケヤキのほかにもあり、直径5メートルの大イチョウは、樹齢800年を超えるといわれます。一説には妻政子の安産祈願に訪れた頼朝が植えたとも伝えられ、鎌倉の鶴岡八幡宮のイチョウと同い年?
ちなみに、イチョウは平安時代には日本にまだ根付いておらず、唐へ渡った僧たちが薬用に持ち帰った銀杏が芽を吹き、鎌倉時代になって広まったということです。

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御神木の大銀杏

境内の宝物殿の扉をあければ、米俵にまたがる大国主命がお出迎えです。
内には有名な「くらやみ祭り」で奉納される神輿や直径2.5メートルの巨大な大太鼓が鎮座しています。総社である大國魂神社の神輿を中心に、一宮から六宮までそろった華麗な神輿は見ごたえ十分です。祭りに太鼓と山車、神輿がそろうのは全国でもここだけということです。(残念ながら写真撮影はできませんでした)

2階には運慶作と伝えられる、国指定の重要文化財、木造の狛犬や、平安時代の木彫の仏像5体、また、江戸時代初期に東インド会社より日本にもたらされた、世界で3個しかないというビードロ鏡などが展示されています。

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上から宝物殿、拝殿、本殿の狛犬(柵誤しにしか見られない)

武蔵国は現在の東京都と埼玉県のほぼ全域と、神奈川県の川崎、横浜市を含む広大な国でした。奈良時代、全国60箇所の国府のうち、武蔵国には大國魂神社境内を含むエリアに国府が置かれました。
甲州街道をはさんだ神社の北側に、近年発掘された国衙(こくが)跡を見ることができます。国衙とは役所の行政事務を司る建物群のことです。
国衙を中心に東西2,4キロ、南北1,2キロの範囲には4000軒もの住居跡が確認されました。 発掘後埋め戻した建物の柱跡に再現した丹塗りの柱を立て、展示館では柱の設置方法が解説してありました。

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国府跡の展示室

神社に隣接するふるさと府中歴史館では、武蔵国府に関する資料や出土品などのほか、府中の歴史に関する資料が展示されています。
江戸時代に甲州街道の宿場として栄えた宿場の面影を残す展示もあります。
中でも目をひいたのは、常滑焼の大甕にいれられた大量の出土銭でした。多くは永楽銭で、貨幣経済が発展した鎌倉、室町時代にうめられたものです。

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ふるさと歴史館の展示の一部(上が大甕の永楽銭)

歴史館を後にすれば甲州街道と川越街道の交差する地点に高札場があります。ここは府中宿の中心地でした。高札場を囲む朱塗りの柵裏は大國魂神社の御旅所です。

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高札場

天慶の乱(940年)で平将門を討って武蔵守となった藤原秀郷の居館跡には見性寺が建てられました。鎌倉幕府滅亡の直前に新田義貞が本陣を構えたことから、この戦乱によって寺は炎上、その跡が曹洞宗高安寺になりました。足利尊氏が開基となって、全国66箇所に建てた安国寺のひとつです。尊氏は聖武天皇の国分寺創設にならったといいます。

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高安寺
鎌倉街道沿いで武蔵国府の近くにあったことから、寺は重要拠点と見なされ、室町時代、2代から5代に渡る鎌倉公方足利氏が戦のためにここに陣を構えました。墓地のすぐ裏が崖となって落ち込んでいる地形も戦好みか、戦国時代には小田原北条氏の軍事拠点となるなど、数々の戦乱をくぐりました。
明治5年再建の山門は禅宗の寺には珍しい二重屋根で、安政3年再建のの鐘楼とともに東京都の歴史的建造物となっています。
見性寺の時代に、平家滅亡後鎌倉入りを許されなかった源義経が寺にたちよったといい、弁慶が大般若経を書写した伝承を伝える「弁慶硯の井戸」があります。

高安寺を出て西に進み、JR南武線分倍河原駅前の新田義貞像を横目にして、義貞軍が駆け抜けた街道を歩いて、分倍河原古戦場を目指します。

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分倍河原駅前の新田義貞の像

上野国生品神社で挙兵したわずか150騎の義貞軍が鎌倉幕府に不満を持つ関東各地の武士団と次々に合流しながら、最終的には2万騎にふくれあがったといいます。
小手指原や久米川の戦いを制し、破竹の勢いで鎌倉街道を南下する新田軍を、武蔵国最後の要害である多摩川で食い止めるべく、幕府軍は分倍河原に陣をしきました。                          元弘3年(1333)5月15日、この合戦に幕府軍は善戦、新田軍は狭山に敗走します。勝った幕府軍はそれ以上の追撃をしなかったため、体勢を立て直した新田軍は翌日奇襲をしかけて大勝、鎌倉幕府が崩壊したのは、幕府軍が勝利した分倍河原の合戦からわずか1週間後のことでした。
多摩川に注ぐ小さな新田川のそばの緑道には分倍河原古戦場の碑があり、文言は義貞から数えて18代目になる新田義美氏の手になります。

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古戦場あとの碑

大國魂神社から古戦場へ、昼食をはさんでこの日歩いた距離は6.5キロでした。
お昼は美登利寿司でちらし寿司をいただきました。
緑寿司はネタが大きいので都内では昼時には行列ができるという評判の店、その支店の一つです。

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